縄文時代には丘陵上に営まれていた集落は、農地近くの低湿地の微高地上に築かれるようになり、米の貯蔵施設として、高床倉庫が建てられた。集落の中には、やがて低丘陵上に営まれるものも現われ、集落の周囲を溝で区切った環濠集落も出現した。環濠集落は防御を目的としたものとされ、弥生時代になると集落間に緊張関係が生まれたことを、吉野ケ里遺跡の櫓跡は物語っている。住居のほとんどは縄文時代以来の竪穴住居であり、炉は屋内に作られた。しかし、時とともに掘立柱による大型住居建物も現われ、集落間での富の集積の差と集落内での権力者の出現を意味している。
弥生時代の墓には、甕棺墓、石棺墓、木棺墓、方形周溝墓、方形台状墓、墳丘墓など、各地で多様な形式がみられるが、全国的に最も普及したのは方形周溝墓である。これら弥生時代の墓にはやがて副葬品や墓の規模に差が現われ、集落内や集落間に階層差が出現したことを示している。