図4―30 多摩川流域の古墳分布図
亀甲山古墳に続く首長墓は、亀甲山古墳から直線距離にして約二・七キロメートル上流、田園調布古墳群とは谷を隔てて隣にあたる世田谷区野毛古墳群中に位置する野毛大塚(のげおおつか)古墳(東京都指定史跡)である。この古墳は前方部が小さく低い帆立貝式と呼ばれる前方後円墳で、墳丘の全長八〇メートル、粘土槨―組合式石棺―木棺直葬―木棺直葬の順に設けられた四か所の主体部を持ち、大量の武器、武具類をはじめとする多種多様な副葬品が発見されている。築造年代は五世紀前半と推定される。野毛大塚古墳に続くのが、同じ野毛古墳群中の御岳山(みたけさん)古墳(東京都指定史跡)である。墳丘の全長四二メートルの帆立貝式前方後円墳で、五世紀中葉に築かれたと推定される。
御岳山古墳の次に造られた前方後円墳が前述した田園調布古墳群にある浅間神社(せんげんじんじゃ)古墳で、この古墳群内では全国的に前方後円墳築造が終わる六世紀末の観音塚古墳まで、前方後円墳が築造された。多摩川流域で田園調布古墳群と野毛古墳群の七基以外に前方後円墳が築かれたのは、狛江市狛江古墳群中の亀塚古墳のみである。墳丘の全長四一メートル、主体部は二か所の木炭槨で、浅間神社古墳とほぼ同時期の五世紀末から六世紀初頭のものと推定されている。
なお、野毛古墳群と狛江古墳群の間、多摩川に注ぐ野川下流域の世田谷区砧古墳群中にある砧中学校七号墳は墳丘全長六五メートルの前方後方墳で、四世紀末から五世紀初頭に築かれたと推定される。前方後方墳には四世紀後半から五世紀代のものが多く、全国でも二〇〇基に満たない。都内では唯一の前方後方墳で、この墳形の古墳を大和政権から地方に派遣された将軍の墓とする説もあるが、墳丘規模からみれば前方後円墳に匹敵するものであることは注目される。