2 群集墳の展開

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 多摩川流域では亀塚古墳より上流には前方後円墳がみられない。亀塚古墳のある狛江古墳群は「狛江百塚」とも呼ばれた大規模な古墳群で、狛江市域南半部の台地上のほぼ一・五キロメートル四方の範囲に七〇基ほどの古墳が確認されている。この古墳群は時期的に五世紀前半から六世紀後半ごろのものと考えられており、六世紀後半ごろから造られることが一般的な関東地方の群集墳よりも一〇〇年以上古い「初期群集墳」である。狛江古墳群中には、亀塚よりも古い五世紀後半と推定される墳丘径三五メートルの東塚古墳や六世紀中葉と推定される墳丘径三八メートルの兜塚古墳(東京都指定史跡)を始めとして、比較的大規模な円墳がみられることや、横穴式石室を主体部に持つ古墳が存在しないと思われる点なども特徴として挙げられる。
 狛江古墳群のさらに上流にあたる調布市、府中市、国立市では、特にここ二〇年来行われてきた開発に伴う発掘調査の結果、墳丘はすでに削平されてしまったものの、墳丘の外側を巡る周溝(空堀)や主体部の下部などが地下に残されていたことにより、古墳群の具体的な内容が明らかになりつつある。
 調布市域では、多摩川下流側から、下布田(ふだ)古墳群(九基)、上布田古墳群(六基)、下石原古墳群(二基)、飛田給(とびたきゅう)古墳群(一四基)などが分布しており、七世紀代まで造られたものと推定される。このうち上布田古墳群では五世紀前半と推定される古天神一号墳と二号墳があり、下布田古墳群では五世紀中葉と推定される下布田三号墳などがみられる。これらは多摩川流域の古墳時代中期古墳としては最も上流域に造られたものである。
 府中市域には、白糸台古墳群(九基)と高倉古墳群(三〇基)がある。白糸台古墳群は調布市飛田給古墳群と本来一連の古墳群であったと推測され、六世紀初頭から七世紀中葉ごろ、高倉古墳群は六世紀前半から七世紀代のものと推定される。白糸台古墳群と高倉古墳群に挟まれた段丘上には、これらの古墳群造営終了後に武蔵国の国庁が置かれている。国立市域には、下谷保(やほ)古墳群(六基)と青柳(あおやぎ)古墳群(二基)が存在する。前者は七世紀前半ごろ、後者は六世紀後半ごろのものと推定されている。
 以上、調布市から国立市に分布する古墳時代後期古墳に共通するのは、墳丘の径一〇メートルから二〇メートル台の円墳で、六世紀後葉以降では自然の川原石を使用した小規模な横穴式石室を持つことである。このような古墳群は多摩川本流域のみでなく多摩川に注ぐ中河川の流域にも分布しており、浅川流域の日野市平山古墳群(六基)を始め、多摩市域の大栗川流域にもみられるものである。
 多摩川本流域の国立市より上流域では、七世紀と推定される昭島市浄土古墳群(五基)などが知られているが、石室は小型簡略化しており、墳丘の低い小規模な古墳であったと思われる。このような古墳として有名なのが、さらに上流域の平井川水系に位置するあきる野市瀬戸岡古墳群(東京都指定旧跡)である。ここでは五〇基ほどの古墳が確認されており、石室内から火葬骨蔵器が出土した例のあることから、奈良時代になっても古墳が営まれていたとする説がある。しかし、石室の形状は七世紀後半の所産と思われることから、骨蔵器(こつぞうき)は古墳の石室を二次的に再利用したものと考えるのが妥当であろう。なお、八王子市域の古墳は群集墳を形成せず単独墳として存在するが、谷地川流域の北大谷古墳(東京都指定旧跡)は墳丘径三九メートルの円墳で、切石を使用した全長一〇メートルの横穴式石室を持つ。築造年代は六世紀末ないし七世紀前半とされるが、多摩川流域の古墳時代後期古墳としては有力な存在である。