この古墳群が文献に登場するのは古く、江戸時代後期の十九世紀の地誌である『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』に、元禄のころには四〇から五〇あった塚が一四か所から一五か所になってしまったという記載がある。この付近の開墾は徳川幕府の殖産振興政策によって本格化したものであることから、江戸時代前期の十七世紀ごろの四〇基から五〇基という数字は古墳群が造られた当時に近いものと推測される。
塚原古墳群では現在までに九基の古墳が確認されている(図4―32)。このうち、墳丘がほぼ残り、古墳であることが明確にわかるものは個人宅内にある一号古墳(未調査)のみであり、残る八基は発掘調査の結果地下に残る周溝や主体部の存在によって判明したものである。
図4―32 塚原古墳群分布図
古墳の規模と墳形は径一〇メートルから一九メートルの円墳で、主体部はいずれも川原石を用いた横穴式石室と推測される。しかし、主体部が検出された四号・五号・六号・九号古墳の四基の主体部は構造的には横穴式であるものの、石室下部が地下に構築されており、実際に人が横から入ることの不可能な大きさであることから、「半地下式」あるいは「竪穴式石室的」横穴式石室と呼ばれ、この種の石室は多摩地区では普遍的に認められる。ちなみに、石室の設計にあたっては、調査した四基とも一尺=二四センチの晋尺が用いられている。
石室内に遺体と共に納められた副葬品は盗掘などによって失われる場合が多いが、四号古墳と五号古墳ではまとまった遺物が発見されている。前者では大刀(たち)三口、刀子(とうす)一本、鉄鏃一〇数本、銅釧(どうくしろ)(腕輪)一対、金環(耳飾り)一対のほかに、碧玉製勾玉、管玉、丸玉、ガラス小玉などの玉類が目立つ。後者では大刀三口、短刀一口、刀子三本の他に、七〇本前後の鉄鏃が目を引く。
出土遺物から、今のところ本古墳群中で最も古いのは六世紀中葉の三号古墳、最新のものは七世紀中葉の九号古墳であり、塚原古墳群が少なくとも一〇〇年間は造り続けられたことがわかる。なお、塚原古墳群の南東約二五〇メートルに位置する庚申塚古墳は墳丘の一部が残っており、庚申塔を祀った祠が建っている。塚原古墳群と同様の川原石を利用した横穴式石室を持つものと推定されるが、未調査のため詳細はわからない。