稲荷塚古墳は東京都の史跡に指定されている著名な古墳で、その特徴をまとめると「全国でも数少ない八角形の古墳であり、精巧な切石で造られた横穴式石室を持つ」ということになる。この古墳の築造年代は七世紀前半と推定されており、東京都内の七世紀古墳としては最大級のものである。
図4―33は稲荷塚が造られた当時のすがたを復元したものである。墳丘の外側には幅二メートルほどの周溝が巡っている。深さは〇・四メートルから一・九メートルとまちまちであるが、八角形の角にあたる部分が意図的に深く掘られており、角の部分を目印として先に掘削した後に全体を掘りつないだものとみられる。墳丘部は、周溝内側に沿って幅六メートルで巡る基壇(テラス)状の一段目と、盛土によって造られた二段目からなり、主体部の横穴式石室は墳丘二段目の中に造られている。現在地上で目にすることができるのは径二二メートルの墳丘二段目で、本来は四メートルほどの高さがあったと思われる。墳丘部の径三四メートル、周溝外側の端から反対側の周溝の端までの対角径は三八メートルである。
図4―33 稲荷塚古墳復元想定図
石室入口に向かって左側、墳丘二段目斜面の裾には、石室構築材と同じ凝灰岩を加工したものが石垣のように貼り付けられている。貼石ないし外護列石(がいごれっせき)と呼ばれるもので、墳丘面の装飾や墳丘端部の区画のために施されたものとみられる。墳丘の盛土は周溝を掘った土などを雑然と積み上げており、非常に柔らかいため一度積み上げた盛土を部分的に掘り直し墳丘強度を高める工夫がみられる。
横穴式石室は凝灰岩を加工した切石を積み上げて築かれているが、天井部は残っていない。内部は一番手前の羨道、真ん中の前室、奥の玄室の三つに区画され、前室と玄室の壁が三味線の胴部のようにカーブしていることから「胴張り複室構造」と呼ばれている。石室の全長は約七・七メートルで、玄室の長さ約三・五メートル、幅約三メートル、前室の長さ約二・三メートル、幅約一・七メートル、羨道の長さ約一・六メートル、幅約一・二メートルである。石室の高さは不明であるが、現存する壁の高さは玄室で約二メートル、前室で約一・四メートル、羨道で約〇・八メートルである。玄室は人が悠々立てる高さであり、奥壁には高さ一・六メートル、幅一・二メートルの一枚石、玄室と前室の境には高さ一・七メートルの門柱石などの巨大な石が使用されている。また、加工した石材によって曲線的な平らな壁面を作り出すだけでなく、切石の積み上げに際して隣接する石の角を一部カットして組み合わせる「切組」の手法も用いられ、規模的にも技術的にも卓越した石室といえる(図4―34)。
図4―34 稲荷塚古墳石室見取図
床面はほぼ水平で、玄室と前室の床面には円礫が敷き詰められているが、羨道部にはない。前室の入口を塞いだとみられる切石が羨道部の奥で発見されており、埋葬後に石室が閉じられたことが窺える。しかし、後世の盗掘に合い、墓室内に納められていた副葬品類は残っていない。
この稲荷塚古墳の墳丘や石室の設計にあたっては、一尺=三五・六センチの高麗(こま)尺が使用されている。墓室の長さ、墳丘二段目の径、周溝を含む古墳の全長がそれぞれ高麗尺の二〇尺、六〇尺、一〇〇尺となり、一対三対五のみごとな比率を示している。さらに八角形の中心点が玄室奥壁中央に一致するなど、きわめて整然とした設計企画のもとに造られている。石室の精巧な造りともあいまって、この古墳が高度な測量、土木、石材加工などの技術をもった工人集団によって造られたとみなすことができよう。
一方、石室の材料となった凝灰岩を削った石屑が散乱する面が、古墳の中心部に近い墳丘盛土の下部で発見されている。これは切り出されてきた石材を最終的に加工し、石室を組上げる作業が墳丘完成前にここで行われたことを示しており、古墳築造の順序を具体的に知ることのできる例として注目される。
稲荷塚古墳の石材がどこから運ばれて来たかは明らかでないが、六〇〇メートルほど離れた大栗川沿いの崖面にも凝灰岩の露頭があり、それほど遠くから持ち込まれたものではないかもしれない。
臼井塚古墳は墳形や規模が不明であるが、稲荷塚古墳の石室を小振りにしたような全長約五メートルの凝灰岩切石造り胴張り複室構造の横穴式石室があり、七世紀前半に稲荷塚古墳に続いて造られたと考えられている。この古墳も天井が消失し、副葬品は残っていない。