和田古墳群中の各支群は埋葬施設の在り方によって、次の三つのグループに分類できる。A 切石使用の横穴式石室を持つ稲荷塚古墳と臼井塚古墳、B 自然石使用の横穴式石室を持つ塚原古墳群、庚申塚古墳、万蔵院台古墳群、C墳丘を持たない横穴墓である中和田横穴墓群。
図4―31中に各支群の造られた年代を示したが、七世紀前半にはAからCまでのすべてのグループが揃う。A・B・C各グループの差異についてはAを頂点としてB―Cというピラミッド型の階層構造を反映するものとする捉え方もある。しかし、臼井塚古墳と厚生荘病院内横穴墓、さらに塚原古墳群と万蔵院台古墳群中にも、それぞれ平面形が同規模の胴張り複室構造を持つものがみられるなど、各グループ間に共通する要素も認められる。また、一般的に高塚古墳に対して墳丘を持たない横穴墓が階層的に劣るというイメージを持たれがちであるが、前述した中和田横穴第一二号墓の副葬品などからは明確な格差は認めにくい。
Bグループは、在地の豪族が複数世代にわたって形成した「群集墳」である。この集団とは階層的に異なる集団がCグループの横穴墓群を形成したとみなすよりは、Bグループを形成した集団の一部が多摩地区では逸早く横穴墓という新しい埋葬形態を取り入れたものと考えたほうが自然であろう。七世紀前半にBグループとCグループが併存する在り方は、この地域で終焉に向かう高塚古墳と、これに代わる横穴墓の台頭という現象を示しているものと捉えられる。
なお、Aグループの主体部である切石切組胴張り複室構造の横穴式石室の分布範囲は、後の律令期における武蔵国の範囲とほぼ一致しており、前方後円墳の築造が停止し、古墳の墳丘面に埴輪が立てられなくなってから造られる。このような石室を持つ古墳が、相対的に有力な立場にあった前方後円墳に取って代わる存在であった可能性が高い。主体部のみでなく、墳丘の規模などからみても卓越している稲荷塚古墳は、和田古墳群中はもとより武蔵における有力墳の一つとして位置付けることができるのである。