研究者によっての見解の異なるものもあるが、現在までに詳細が知られている八角形墳は、稲荷塚古墳を含めてもわずかに一一例ほどである。全国にある古墳の数が一五万基ともいわれている中で、この墳形を採用した古墳がいかに少ないかがわかる。また、八角形墳の分布は畿内中枢部と地方に大別できる。
幾内中枢部にある八角形墳は七世紀中葉から八世紀初頭にかけて造られたもので、いずれも天皇陵ないし天皇陵と推定されているものである。これらを年代順に示すと次のようになる。
1 奈良県桜井市 段ノ塚古墳(陵墓)。六四三年没の舒明天皇陵。
2 奈良県高市郡明日香村 牽牛子塚古墳(国指定史跡)。六六五年没の斉明天皇陵と推定。
3 京都府京都市 御廟野古墳(陵墓)。六七一年没の天智天皇陵。
4 奈良県高市郡明日香村 野口大墓古墳(陵墓)。六八六年没の天武天皇と六九六年没の持統天皇の合葬陵。
5 奈良県高市郡明日香村 中尾山古墳(国指定史跡)。七〇六年没の文武天皇陵。
以上、舒明天皇から文武天皇にいたる歴代天皇では、斉明天皇の次に即位した孝徳天皇を除くすべての天皇が八角形墳に葬られたことになる。
一方、地方の八角形墳としては次のような例が知られている。
1 山梨県八代郡一宮町 経塚古墳(山梨県指定史跡)。七世紀前半。
2 兵庫県宝塚市 中山荘園古墳(兵庫県指定史跡)。七世紀中葉。
3 群馬県多野郡吉井町 一本杉古墳。七世紀中葉。
4 広島県芦品郡 尾市一号古墳。七世紀後半。
5 群馬県北群馬郡吉岡町 三津屋古墳(群馬県指定史跡)。七世紀後半。
これら地方の八角形墳の造られた時期をみると、東日本の経塚古墳と稲荷塚古墳が七世紀前半の所産と考えられており、畿内中枢部の天皇陵よりも先行して造られたことが指摘できる。
八角形墳の形については、法隆寺夢殿などり八角形の堂宇のように、六世紀中葉に伝来した仏教思想に基づく鎮魂の意味を持ったものとする説と、八角形を円でなく方の概念で捉え、「地(国土・国家)は方なり」とする道教的思想によるもの、さらに八角形の壇を皇帝の儀礼の象徴とする中国の政治思想によるものなどとする説がある。いずれにしても、従来の古墳文化にはみられなかった外来思想を、稲荷塚などが畿内中枢部よりも先取りしていたことは注目される。
なお、最近の研究では、畿内中枢部の八角形墳が墳丘裾に巡らす外護列石を厳密な企画のもとに八角形に配置していることや、墳丘の盛土を行うにあたって黒土や赤土など性質の異なる二種類から三種類の土を交互に薄く水平に敷き詰めて叩き締める「版築(はんちく)」の技術を採っているのに対し、三津屋古墳以外の地方の八角形墳の外護列石に施工誤差がみられ正八角形にならないことや、墳丘盛土に際して版築の技法が採られていないことが明らかになっている。版築で墳丘を積み上げた場合、傾斜の急な墳丘を築くことが可能となる。この版築技法は寺院の中心的堂塔など荷重のかかる建物の地盤沈下を防ぐために考えられた工法で、古墳の築造にも影響を与えたものである。
このように、畿内中枢部の八角形墳が厳密な外護列石を巡らせ、版築技法による腰高な墳丘を築いた背景には、天皇陵としての威容を誇るとともに、これらに先行してすでに築かれていた地方の八角形墳に対して格差を示す意味もあったと考えられる。