日本では、中国大陸や朝鮮半島のように被葬者名などを記した墓誌を古墳の中に納める風習がなかったため、文献記録に載っている大王などごく一部の人物を除いて被葬者を特定することは難しい。しかし、考古学的な情報をもとにある程度の人物像に迫ることは決して不可能ではない。
稲荷塚古墳の被葬者を推測するにあたっては、地方の八角形墳に共通する在り方が手がかりとなる。すなわち、稲荷塚古墳を含む六基の八角形墳の立地をみると、いずれも単独墳であり、やや距離を置いて在地の豪族が築いた群集墳が存在し、八角形墳と同時期の古墳がある。このことは八角形墳の被葬者が群集墳に葬られた集団とは出自を異にしていたことを示すものといえる。
さらに、稲荷塚古墳、経塚古墳、三津屋古墳は国府や国分寺に近いという共通点を持つ。稲荷塚古墳の場合、多摩川を隔てて東北約五キロメートルに武蔵国庁が位置する。稲荷塚古墳の造られた年代と武蔵国府が機能し始めたと思われる八世紀初頭では半世紀以上の隔たりがあるが、国府が設置される地域の周辺には有力な古墳群がみられる場合が多い。三津屋古墳のある上野国や経塚古墳のある甲斐国も同様である。これは全くの原野に国府が設置されたのではなく、在地の有力豪族がすでに掌握していた土地に国府が招致されたことの反映と捉えられる。その在地豪族を葬った群集墳よりも優位な存在である八角形墳に葬られたのは、後の国府や国分寺の成立に少なからぬ影響を与えた人物、たとえば多氷の屯倉経営などのために中央の大和政権から差し向けられた有力者と考えることができる。
このように、稲荷塚古墳を頂点とする和田古墳群は、南武蔵の地に国府が設置される背景を担った在地豪族と、この集団を掌握する立場にあった大和政権と関係の深い存在を示すものとして位置付けることが可能である。