多摩市内の古墳時代前期集落は、塚原古墳群や稲荷塚古墳のある丘陵上に位置する和田・百草遺跡で唯一発見されている。ここでは現在までに二四軒の竪穴住居跡が発見されており、その分布は大栗川を望む標高六八メートルの丘陵先端部付近から標高七六メートル付近にかけての南北五〇〇メートル、東西三〇〇メートルほどの範囲に及んでいる。特に北側の丘陵先端部付近には竪穴住居の分布密度が高く、弥生時代以来の有力者の墓である方形周溝墓も二基発見されている。また、丘陵南側では幅一・二メートルから二メートル、深さ一メートル弱、総延長一二五メートル以上の溝がほぼ南北に走っており、集落内を区画するためのものと考えられる。古墳時代前期では、大栗川流域はもとより、多摩川流域でも拠点的な集落の一つに数えられる。
古墳時代中期の集落は多摩川流域でも少数であり、世田谷区、狛江市、調布市、日野市、八王子市でそれぞれ二遺跡から三遺跡が知られているに過ぎない。
多摩市の古墳時代後期の竪穴住居跡は和田・百草遺跡、東寺方遺跡、落川・一の宮遺跡で発見されている。和田・百草遺跡では塚原古墳群の南側、南北二〇〇メートル、東西一〇〇メートルほどの範囲から八軒の竪穴住居跡が発見されているが、分布密度は散漫である。年代的には七世紀中葉から末ごろに限られる。
東寺方遺跡は、和田・百草遺跡とは小河川を挟んだ東隣の丘陵上に位置する。七世紀後半の竪穴住居跡一軒が発見されているが、この遺跡の中心は奈良時代前半である。
落川・一の宮遺跡は多摩川本流と大栗川に挟まれた東西一・四キロメートル、南北六〇〇メートルの広大な沖積地に立地し、日野市と多摩市にまたがっている。このうち、多摩市側では七世紀の竪穴住居跡が一軒発見されている。
和田・百草遺跡の古墳時代集落は和田古墳群の中に位置するが、和田古墳群の造営が開始された六世紀中葉から七世紀前半ごろにかけての竪穴住居跡が発見されていないことから、和田古墳群の形成母体となった集団の集落とは考えにくい。和田古墳群の東北約二キロメートルにある落川・一の宮遺跡では、特に日野市側で大規模な発掘調査が実施されており、この遺跡が和田古墳群を奥津城にしていた可能性が最も高い。
多摩市の古墳時代集落は大栗川流域に限られており、乞田川流域に開発の手が加わるのは奈良時代になってからのことである。