稲荷山鉄剣銘

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ここで、この時期の武蔵を語るうえで避けて通れない、埼玉古墳群稲荷山古墳から出土した鉄剣銘について触れることとする。
 埼玉古墳群の最北端に位置し、最も早く築造された稲荷山古墳(一二〇メートルの前方後円墳)の二つの埋葬施設のうち、礫槨の副葬品の中から出土していた鉄剣から、表面に五七字、裏面に五八字、計一一五字の金象嵌した文字が発見されたのは、昭和五十三年(一九七八)のことであった(銘文は資一-3)。
 この銘文は、辛亥年(四七一年)にこれを記したことを述べたうえで、上祖である意富比垝(オホヒコ)から始まり乎獲居臣(ヲワケノオミ)まで続く八代の系譜を語り、乎獲居が代々杖刀人の首として奉事し、獲加多支鹵(ワカタケル)大王の寺(宮)が斯鬼(シキ)宮にあった時に天下を左治したこと、そしてこの鉄剣銘に記された内容が自己の奉事の根原であることを述べている。
 ここに記された獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)が、『宋書』倭国伝の「倭王武」、記紀の「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)(大長谷若建)天皇」すなわち雄略天皇に相当することは間違いなく、熊本県江田船山古墳出土大刀銘に見える大王も同じく獲加多支鹵と解読されるに至った。記紀、中国史料、倭国の東西の二つの金石文という史料群によって、五世紀末の倭国の歴史の解明が飛躍的に進歩したと言えよう。
 稲荷山鉄剣銘に関して問題となるのは、乎獲居と稲荷山古墳礫槨の被葬者との関係である。これについては、(一)乎獲居は畿内の大和政権を構成する有力豪族で、武蔵の地方豪族である稲荷山古墳の被葬者がこの鉄剣を乎獲居から下賜されたとする考えや、(二)乎獲居は武蔵の豪族で、稲荷山古墳に葬られているのも乎獲居であるとする考えがある。また、(三)乎獲居は畿内豪族であるが、鉄剣をともなって東国に派遣され、武蔵の地で死去したのち、その地に鉄剣とともに葬られたとする考えもある。
 これらの説にはそれぞれ一長一短があり、にわかには断定できないが、当時の技術から見て、鉄剣の象嵌が畿内で行われたことは確実であり、また東国の出身者が杖刀人の首という高い地位について大王の天下を左治したと称することは考えがたいから、乎獲居は畿内豪族と見るのが妥当であろう。さらに、稲荷山古墳は埼玉古墳群のなかで最初に出現した首長墓であり、先代以前の墓はこの古墳内には存在しないこと、後に述べる武蔵国造の地位をめぐる争乱の結果、あらたに武蔵国造の地位についたのが北武蔵の勢力であり、埼玉古墳群の被葬者はその武蔵国造家と考えられること、などよりすれば、これは杖刀人の首の地位にあった畿内豪族の乎獲居が、東国の有力な杖刀人であった稲荷山古墳の被葬者に、この鉄剣を賜与したと考えるのがもっとも妥当ではないかと思われる。その場合、乎獲居が上祖と主張する意富比垝ることも、十分な蓋然性をもつと言えよう。

図4―39 埼玉稲荷山古墳出土 金錯銘鉄剣