屯倉・名代の設置

385 ~ 389
先に述べた武蔵国造の争乱において、朝廷の支持を得ることによって国造の地位を獲得した笠原直使主は、横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉を朝廷に献上したと伝える(資一―4)。
 屯倉とは、大化前代における大王もしくは大和政権の直轄領のこと。ヤケすなわち政庁、クラすなわち正倉、タすなわち水田の三者を主要な構成要件とし、これが可耕地、山林、鉱山、塩浜、漁場、牧場、猟場などをも含む、一定の地域を占有するものへと拡大された。六世紀前半が設置の画期とされ、この時期に大和政権の勢力が各地方に拡大されたことをうかがわせる。
 笠原直使主が献上したという横渟・橘花・多氷・倉樔の四処の屯倉のうち、橘花は令制の橘樹(たちばな)郡、多氷は「多末」の誤りと見て令制の多磨郡、倉櫟は令制の久良岐(くらき)郡のこととされている。いずれも現在の多摩地方から神奈川県横浜市にかけての南武蔵であり、笠原直使主によって討滅された小杵を盟主とする南武蔵連合の勢力基盤であることが注目される。
 ただ、横渟については、これを北武蔵の横見郡、あるいは吉見のことと解し、大和政権が武蔵国造を監視するために置いたものであるという理解が有力であった。しかし近年、これを八王子の横野(鎌倉初期まで遡る地名)、つまり「横山」のことであると解する意見も出されている。そうすると、これは八王子周辺の丘陵地帯ということになり、『万葉集』に見える多摩の横山と同じ地域のことを指すことになる。
 この理解に従うならば、使主によって献上されたという四処の屯倉は、いずれも南武蔵地方の、使主と敵対した地域の故地ということになる。
 一方、名代(なしろ)とは、五、六世紀ごろの大王・后妃・王族の名や宮号の名を冠した人々の集団で、大和政権に出仕する、同じ名を冠した靫負(ゆげい)・舎人(とねり)・膳夫(かしわで)などの資養のため、物資や労役を奉仕するものであった。大和政権は、この制によって宮廷の体制を整備するとともに、地方勢力の中央に対する服属関係を強化した。
 武蔵国においてその設置が伝えられる名代は、伊福部(いふきべ)(景行天皇皇子の名代)、宇遅部(うじべ)(応神天皇皇子の名代)、矢田部(仁徳天皇皇后の名代)、日下部(くさかべ)(仁徳天皇皇子の名代)、飛鳥部(允恭天皇の名代)、刑部(おさかべ)(允恭天皇皇后の名代)、藤原部(允恭天皇妃の名代)、白髪部(しらかべ)(清寧天皇の名代)、檜前(ひのくま)舎人(宣化天皇の名代)、椋橋部(くらはしべ)(崇峻天皇の名代)、壬生部(みぶべ)(諸皇子の名代)などである(表4―3)。
表4-3 武蔵国部姓一覧表
郡名 部・舎人名 人名 出典 備考
都筑郡 服部 服部於由 万葉集巻20 上丁
服部呰女 万葉集巻20 於由の妻
多磨郡 日下部 日下部真刀自 日本霊異記中巻 鴨里の人の母
丈部 丈部(大真)山継 日本霊異記下巻 小河郷の人、少領
白髪部 白髪部氏 日本霊異記下巻 山継の妻
刑部 刑部直道継 続日本後紀承和13年5月壬寅条 狛江郷の戸主
刑部直真刀自咩 道継戸口
刑部広主 真刀自咩の夫
鳥取部 鳥取部直六手縄 日野市落川遺跡出土紡錘車線刻 和銅7年11月2日の年紀あり
橘樹郡 刑部 刑部直国当 天平勝宝8歳調庸布墨書 橘郷の人
飛鳥部 飛鳥部吉志五百国 続日本紀神護景雲2年6月癸巳条
物部 物部真根 万葉集巻20 上丁
椋椅部 椋椅部弟女 万葉集巻20 真根の妻
荏原郡 物部 物部歳徳 万葉集巻20 主帳(丁)
椋椅部 椋椅部刀自売 万葉集巻20 歳徳の妻
物部 物部広足 万葉集巻20 上丁
豊島郡 椋椅部 椋椅部荒虫 万葉集巻20 上丁
宇遅部 宇遅部黒女 万葉集巻20 荒虫の妻
宇遅部 宇遅部白岐太 武蔵国分寺出土瓦銘
宇遅部 宇遅部結女 武蔵国分寺出土瓦銘
倉梯部 倉梯部百足 武蔵国分寺出土瓦銘
刑部 刑部広島 武蔵国分寺出土瓦銘
壬生部 壬生部子万呂 武蔵国分寺出土瓦銘
壬生部 壬生部荒□ 武蔵国分寺出土瓦銘
鳥取部 鳥取部角 武蔵国分寺出土瓦銘
土師部 土師部 武蔵国分寺出土瓦銘
占部 占部乙麻呂 武蔵国分寺出土瓦銘
足立郡 丈部 丈部不破麻呂 続日本紀天平宝字8年10月庚午条 後、武蔵国造
入間郡 物部 物部直広成 続日本紀神護景雲2年7月壬午条 正六位上勲五等
矢田部 矢田部黒麻呂 続日本紀宝亀3年12月壬子条
大伴部 大伴部直赤男 続日本紀宝亀8年6月乙酉条 贈外従五位下
横見郡 日下部 日下部東人 年月未詳庸布墨書 御坂郷の人
埼玉郡 藤原部 藤原部等母麻呂 万葉集巻20 上丁
物部 物部刀自売 万葉集巻20 等母麻呂の妻
男衾郡 飛鳥部 飛鳥部東麻呂 天平6年調布墨書 鵜倉郷笠原里の人
那珂郡 檜前舎人 檜前舎人石前 万葉集巻20 上丁
大伴部 大伴部真足女 万葉集巻20 石前の妻
宇遅部 宇遅部大山 武蔵国分寺出土瓦銘
宇遅部 宇遅部黒栖 武蔵国分寺出土瓦銘
宇遅部 宇遅部真笑 武蔵国分寺出土瓦銘
当麻部 当麻部牛麻呂 武蔵国分寺出土瓦銘
賀美郡 檜前舎人 檜前舎人直由加麿 続日本後紀承和7年12月己巳条 正七位上勲七等
秩父郡 大伴部 大伴部小歳 万葉集巻20 助丁
郡名不明 額田部 額田部槻本首 日本書紀神功摂政47年4月条 千熊長彦の後
物部 物部連兄麻呂 聖徳太子伝暦、舒明5年 武蔵国造
秦部 秦部美□男□ 天平勝宝8歳調庸布墨書 武蔵国史生
伊福部 伊福部浄主 日本後紀大同元年8月己卯条
椋橋部 椋橋部氏 続日本後紀承和5年12月辛亥条 大安寺僧寿遠の俗姓
漆部 漆部 比企郡泉井窯址出土瓦銘
宇遅部 □遅部小□ 比企郡泉井窯址出土瓦銘
鳥取部 鳥取部万呂 比企郡泉井窯址出土瓦銘
刑部 刑部 比企郡須恵窯址出土瓦銘
都羅部 都羅部 大里郡末野窯址出土瓦銘
占部 占部犬麻呂 武蔵国分寺出土瓦銘
神人部 神人部広□ 武蔵国分寺出土瓦銘
城部 城部玉根□ 武蔵国分寺出土瓦銘
椋椅部 椋椅部小□ 武蔵国分寺出土瓦銘
椋部 椋部男□ 武蔵国分寺出土瓦銘
土師部 土師部□ 武蔵国分寺出土瓦銘
播他部 播他部 武蔵国分寺出土瓦銘
壬生部 壬生部 武蔵国分寺出土瓦銘
若奉部 若奉□ 武蔵国分寺出土瓦銘
□作部 □作部 武蔵国分寺出土瓦銘

 また、名代の痕跡を示す部民の分布を調べると、秩父地方に五、北武蔵地方に二、南武蔵地方に十二の部民が分布している。三国造の勢力分布とほぼ一致している点が読みとれるが、やはり武蔵国造の争乱に敗北した南武蔵地方の分布が、他を圧して多い点に注目すべきであろう。南武蔵が大和政権の直轄支配下に置かれていたことの反映であろう。なお多磨郡には、刑部(資一―170)、日下部(『日本霊異記』中ノ三)、丈部(はせつかべ)(『日本霊異記』下ノ七)、白髪部(『日本霊異記』下ノ七)、鳥取部(日野市落川遺跡出土紡錘車線刻)の存在が確認されている。