多摩川流域の群集墳を概観すると、まず下流域に、田園調布古墳群(大田区田園調布)、野毛古墳群(世田谷区上野毛)がある。横穴式石室を有する六世紀以降の古墳は、田園調布古墳群に集中しており、この地域が多摩川流域の中心であったことがうかがえる。
中流域では、砧(きぬた)古墳群(世田谷区砧)と、狛江古墳群(狛江市)がある。砧古墳群は、六世紀には有力な古墳は見られなくなるが、狛江古墳群は、六世紀末に至るまで円墳が集中的に築造されており、銘文のある中国鏡や銀環、馬具など、大陸的な要素の濃い副葬品を出土している。朝鮮半島からの渡来人の移住に伴うものであろう。また、下布田(しもふだ)古墳群(調布市下布田)や飛田給(とびたきゅう)古墳群(調布市飛田給)のほか、多摩市域を中心に、和田・百草(もぐさ)遺跡群の中に、和田古墳群がある。
上流域には、昭島市内に浄土古墳群、あきる野市内に瀬戸岡古墳群などがあるが、総じて小円墳が多くなり、副葬品も貧弱である。
これらの群集墳が六世紀に入って増大したことの背景には、この時期に人口が増加したことと、鉄製農具の普及によって農業生産力が発達したことによる、有力農民の成長がある。古墳時代後期になると、長甕(ながかめ)・甑(こしき)・杯(つき)など生活に最低必要な土器が各住居跡から出土するようになる。これは、住居ごとにカマドが設置されるようになったことと合わせて、住居ごとの消費生活が自立してきたことを示している。一方この時期には、滑石で剣・玉・鏡を真似て作った石製模造品が集落から出土するようになるが、それらは一つの住居群に一軒という割合でしか出土しない。
つまり、生活は各住居で自立しはじめるが、祭祀は特定の住居に住む人物が掌るという形態が想定できるのである。この人物こそ家長と考えることができ、このような家族形態を家父長的世帯共同体と呼んで、それ以前の世帯共同体と区別している。
ただし、各住居跡が密集して分布していることは、生産の単位が各住居であったとは考えにくく、住居群に示される家父長的世帯共同体を単位としたことを示している。六世紀の古墳時代後期には、農業共同体からは自立しつつあったものの、住居群単位ではいまだ強い結合が存在していたことがうかがえる。
これらの生産力の向上や家族の成長の背景には、鉄製農具の普及が挙げられる。古墳時代の住居跡からの鉄製農具の出土率から、鉄製農具の所有形態を推測すると、古墳時代前・中期には共同体ごとに所有され、まとめて管理されていたのに対し、五世紀後半以降は家父長的世帯共同体ごとに所有されるようになったという。また、五世紀以前の鋤と鍬先は、その先に鉄板を巻き付けた程度のもので、実用的なものとばかりは言えず、再生産を祈る呪具的色彩をも持っていたのに対し、六世紀以降にはU字形の鋤と鍬先が出現し、住居跡から出土するようになる。実際に農具として使用され、改良されてきた結果であろう。
古墳時代後期には家父長的世帯共同体が確立し、農業共同体から家族が自立しはじめるようになった。そして、その中の有力な家族は、規模こそ小さく、副葬品も貧弱ではあるが、小円墳という、首長層と同一の墓制を採り入れることになった。
多摩丘陵域の集落遺跡は、古墳時代後期に入ると、前・中期をはるかに凌ぐ数と分布域を示している。また、古墳時代前・中期には住居跡が検出されず、古墳時代後期に至って集落が形成されはじめる遺跡が多いことも特徴的であり、多摩丘陵域が本格的に開発されてくるのが、古墳時代後期であることを示している。これらの集落は、奈良・平安時代にも引き続いて維持されていたものが多い。
図4―40 多摩丘陵域集落遺跡分布図