この点で、武蔵ないし東国地域の耕地の特質として挙げられるのは谷地田(やちだ)の卓越である。こうした地理的条件が、地域の水田耕作や開発の性格を規定していた。谷地(やち)とは、小河川によって台地や扇状地が解析されてできた谷に形成された小規模沖積地であり、谷地の奥や端の崖ぎわなどからの湧水を利用して水田を開発することができた。開発規模も小さく必要な技術レベルも高くない谷地田は、早くから水田適地として利用された。東国では、房総や常陸・下野の地域を中心に谷地地形が無数に分布している。武蔵周辺では、大宮台地・武蔵野台地・多摩丘陵や関東山地の縁辺に谷地地形が見られる。谷地以外の平地の多くは、利根川・荒川などの大河川によって形成された沖積低地帯で著しく低湿であり、古代の灌漑技術をもってしては開発不可能であった。多摩丘陵周辺では、古墳や集落遺跡の分布などから見て、大栗川流域で谷地田を中心とした開発が古墳時代から始まっていたと推定される。
図4―41 復元家屋(八王子市中田遺跡)
畿内では七世紀に入る頃から、大和・河内地域を中心に、谷の出口を塞ぎ止めて溜池を築造して谷の前面に広がる沖積平野の灌漑に利用したり、人工水路を建設して大規模な灌漑ネットワークを設けるなど、大和政権の主導による大規模な水田開発が行われるようになり、水田開発の規模や企画性は一段新しい段階を迎えていた。一方東国では、『常陸国風土記』の椎井(しいい)池の伝承からうかがわれるように、谷地田のある谷の奥に灌漑用の池を築造するといった形で、旧来の開発形態が踏襲されていた。『日本書紀』には、淀川下流域の茨田堤(まんだのつつみ)築造に際し、工事に従事していた武蔵の人強頸(こわくび)と、河内の人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人が人柱に選ばれた説話が載せられている(仁徳天皇十一年条)。この話では、強頸は泣き悲しみながらも水に没したが、衫子は川の神に対して、もし瓢(ひさご)を水中に沈めることができれば真の神と認めて身を捧げようと言い、結局衫子は命を失うことなく堤を完成させたという。いわば、先進的な畿内と後進的な東国を象徴するような説話である。しかし、これを自然観・呪術観なり知識や技術の受容の面での東国の後進性の表れとだけ理解することはできない。むしろ、自然と対決しそれを克服するような大規模な開発が東国では一般的でなかったことを背景として考える必要がある。東国においては、畿内のような大規模開発を可能とする条件が、地形的にも社会的にも存在しなかった。新たに耕地を拡大するのではなく、旧来の開発形態を維持踏襲しながら生産力を向上させる努力が行われていたと考えられる。そこに当時の東国社会独自の特質を認めるべきであろう。
東国地域の生業については、馬の生産、牧の経営が古墳時代から始められたことも注目される。発掘調査によって出土した馬の遺物を検討した成果によると、日本の在来馬の起源は四世紀末から五世紀ごろまでしかさかのぼらないとする見解が近年は有力になりつつある。このころの朝鮮半島をめぐる軍事情勢を背景に、乗馬の風習が日本に導入され、馬が持ち込まれたものと思われる。古墳の副葬品として馬具が出現し始めるのもちょうどこの時期である。日本では、これ以降、多数の良質な馬の生産・育成が急速に普及したことがうかがわれる。その背景として、良馬を効率的に生産・育成するための牧(まき)の存在があったことは間違いない。家畜を放牧して飼育するための土地と施設が牧であり、牧があってはじめてこれだけ急速な馬の生産の拡大と質の向上が可能となったのであろう。牧の経営は、日本への馬の導入後まもなく各地に広まったものと思われる。
馬の利用の普及について、馬具の出土状況から見ると、五世紀代には畿内以西を中心に事例もさほど多くはなかったものが、六世紀に入ると事例は一挙に増加し、分布も関東から九州までほぼまんべんなく確認されるようになる。さらに、六世紀末以降になると、東日本の事例が西日本を凌駕するようになる。東国が、馬の一大産地となっていたことがうかがわれる。奈良時代・平安時代の文献によると、東国は良馬の産地として著名であり、多くの牧が置かれた。また、東国の人々が馬の飼育にたけ、民衆レベルまで馬の利用が普及していたことを示す史料も見られる。こうした状況は、古墳時代以来の馬と東国民衆との交流の中でつちかわれたものであった。
図4―42 三吉野遺跡群出土の馬具