六世紀の末から七世紀にかけて、東アジアはきびしい緊張の時期を迎えた。中国は隋によって再統一され、その威圧をうけて、朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国がそれぞれ国力の強化に努めた。日本でも、大和に基盤を置く豪族が大王を中心に権力の集中をはかり、やがて大化元年(六四五)、蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)父子を倒した中大兄皇子と中臣鎌足とによって、大化改新の政治改革が開始された。
新政府は同年八月、東国に国司を派遣し、土地と人民の領有の実態を把握するとともに、武器庫を造って民間の武器を収納することを命じた。大化の新政府がその政治改革の最初に東国を選んだのは、東国には五、六世紀以来名代の部が多く設定され、舎人を貢進するなど、大和政権と深い関係をもっていたことによるのであろう。このとき国司として東国に派遣されたのは八組みの「良家の大夫」(中央豪族に属する官人)で、使命を果たして帰還した国司に対しては、翌二年三月、その治績について厳しい審査と処断とが行われた。
大化の新政府は、全国に評(こおり)(のちの郡)を置き、その上に国を置く新しい地方行政制度の実施を推進した。諸国の境域が確定し、のちの令制の国が成立するのは、七世紀後半の天武朝のことと思われる。
『常陸国風土記』によると、大化改新の行われた孝徳天皇のとき、坂東の地(関東地方)を惣領するために高向臣(たかむこのおみ)・中臣幡織田連(なかとみのはとりだのむらじ)らが派遺され、坂東の地が八国に分けられた。これらの大夫によって、大化五年(六四九)から白雉四年(六五三)にかけて、茨城国造と那珂国造とがそれぞれに領有する里を割いて行方(なめかた)郡(評)を設けるなど、旧来の国造の支配地を分割したり、統合したりして評が設定されたとされている。