国名が「武蔵」と記されるようになるのは、和銅六年(七一三)以後のことである。この年五月の制により、諸国の国・郡・郷の名には、漢字二字の、中国風の佳名が用いられることになった。武蔵の場合、それまで「無邪志」「無耶志」などと記していたのが、これ以後は「武蔵」の表記に統一されたのである。養老四年(七二〇)に完成した『日本書紀』では、すべて「武蔵」と記されている。「武蔵」という表記には「武人を多く出す国」の意味がこめられており、大和政権の武力を担った古来の東国の伝統が、そこに反映していると見られよう。
令制の武蔵国は、北部の荒川とその支流の入間川、南部の多摩川と、大きな河川の流域を占め、関東平野の南部と、西部の山岳地帯とを含む広大な領域を有していた。それは旧来の知々夫(秩父)国造・無邪志(武蔵)国造(「胸刺国造」をこれに加える説もある)の領域を併せたもので、旧来の無邪志国造の領域を主体として、新しい武蔵国が成立したことを示している。
さて武蔵国にも、国の下部組織として評が置かれた。この「評」は、のち大宝元年(七〇一)制定の大宝令で「郡」と改称される。武蔵国の評としては、飛鳥京跡出土の木簡に「横見評」と記したらしいもの(資一―9)、および「仲(那珂)評」と記したものがあり、また藤原宮跡出土の瓦片には、「前玉(さきたま)(埼玉)評」「大里評」と記したものがある(資一―10)。多磨郡のもととなる多磨評も、大化改新後ほどなく置かれたのであろう。
図4-43 古代の武蔵国略図
「多磨郡」は「多麻」「多摩」などとも書く。おそらく多摩川流域の郡の意味で、「多摩川」とは、遠江国の天竜川を「麁玉河(あらたまがわ)」と称した例(『続日本紀』)や、砂利採取が活発化する以前の多摩川の状況からすると、玉石の多い川の意味であろう。したがって「多磨郡」も、最初は「玉評(郡)」と記されていた可能性がつよい。おそらく先に述べた和銅六年の制で、本来の語意を生かしつつ、佳字を用いて「多磨」と表記されるようになったのであろう。
律令制下の多磨郡は、国府の所在地として、武蔵国の行政の中心となった。現在の多摩市の市域は、国府のすぐ南、多摩川を隔てた場所に位置している。国府や国分寺を支え、また国府と他の地域とを結ぶ交通路を支えるという、重要な役割を担う地域となったのである。
多磨郡の郡司の本拠地で、郡の行政をになう郡家が置かれたのは、国府の所在地である現在の府中市であろう。国府推定地に近い府中市の遺跡からは、「多研」の墨書のある硯が出土している。また同市宮町二丁目の京所(きょうず)廃寺跡からは「多寺」の型押しのある瓦が出土していて、これが「多磨寺」、すなわち郡司の造立したいわゆる郡名寺院であることが推測されている。
図4―44 「多研」の墨書のある硯
図4―45 武蔵国の評の墨書のある瓦片(藤原宮跡出土)