律令地方行政

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大化改新ののち、日本は、天智天皇二年(六六三)には中国(唐)の軍隊との直接の戦闘(白村江の戦い)を経験し、さらに天皇死後の七六二年には、壬申の乱という大きな内乱を経験した。このような試練を経た七世紀後半の天武・持統天皇の時代には、中国の律令制の法体系に倣った国家体制の整備が進められ、全国の人民を戸籍に登録し、性別・年齢に応じて租税や労役を取り立てる体制と、それを支える中央の官僚機構とが急速に形成された。それは持統天皇三年(六八九)の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、文武天皇の大宝元年(七〇一)の大宝律令として、法制的に整備された。
 律令制のもとでは、地方の行政は中央から派遣される国司によって担われた。国司は、それまでの国宰(クニノミコトモチ)とは異なり、六年ないし四年の任期で常駐して政務に当たった。実際に在地の民衆支配の実権を握っていたのは、もと国造(くにのみやつこ)などの在地首長であって、彼らは律令制のもとで郡司に任命され、戸籍や計帳の作製、租税や労役の徴収、正倉の管理などの実務に当たった。国司はこのような郡司の在地首長としての民衆支配力に依拠しつつ、政治を行ったのである。
 律令制の行政区画では、全国は畿内と東海道以下の七道とに分けられた。七道は本来交通路であって、それは畿内から辺境へと大和政権が勢力を拡大していく、その経路を示すものでもあった。律令制のもとでは、巡察使・検税使などが道を単位として派遣され、太政官や民部省など中央官庁から諸国への通達、中央への物資の貢納なども、この道に沿って国から国へと行われた。
 関東の諸国は、当初、相模・安房・上総・下総・常陸の諸国が東海道、上野・武蔵・下野の諸国が東山道にそれぞれ属していた。しかし関東地方は、地形的に関東平野を主体とする一体性をもっており、これを二道に分けることは必ずしも合理的ではなかった。そのため八世紀の中ごろから、関東諸国は「坂東」「坂東八国」と総称され、行政的に一体のものとして扱われることが多くなった。
 律令制では、国は大国・上国・中国・下国の四等級に分けられ、また都からの遠近によって近国・中国・遠国の三段階に分けられた。武蔵国は大国で、かつ遠国とされた(資一―277)。武蔵国は、管する郡の数では坂東八国の首位を占めるが、その国の財政規模を示す公出挙稲(くすいことう)の数量では、常陸国についで二位である(表4―4参照)。おそらく未墾の原野を多く残していたのであろう。
表4-4 坂東八国の出挙稲額(『延喜式』による)
(単位は束)
国名(等級) 正税 公廨 雑稲
東海道
相模(上国) 300,000 300,000 268,120 868,120
武蔵(大国) 400,000 400,000 313,754 1,113,754
安房(中国) 150,000 150,000 42,000 342,000
上総(大国) 400,000 400,000 271,000 1,071,000
下総(大国) 400,000 400,000 227,000 1,027,000
常陸(大国) 500,000 500,000 846,000 1,846,000
東山道
上野(大国) 300,000 300,000 286,935 886,935
下野(上国) 300,000 300,000 274,000 874,000

表4-5 武蔵国の雑稲の内訳
国分寺料 50,000束
薬師寺料 42,000束
梵釈四天王料 7,700束
文殊会料 2,000束
薬分料 10,000束
修理池溝料 40,000束
救急料 120,000束
悲田料 4,500束
俘囚料 30,000束
勅旨繋飼御馬秣料 2,020束
神埼牧牛直 5,534束
 
313,754束

 国の下の行政単位は郡であり、その下には五〇戸で構成される里(郷)がある。武蔵国の郡の数は、『延喜式』によれば二一だが、このうち高麗(こま)郡は霊亀二年(七一六)の新設、また新座(にいくら)郡は天平宝字二年(七五八)新設の新羅(しらき)郡の後身である。多磨郡は多摩川の上・中流域を占め、埼玉郡・秩父郡と並ぶ広大な郡域を有していた。
 十世紀に源順(みなもとのしたごう)によって編纂された『倭名類聚抄』(和名抄)によると、多磨郡内には小川(おがわ)・川口(かわぐち)・小楊(おやぎ)・小野(おの)・新田(にうた)・小島(おしま)・海田(あまた)・石津(いしづ)・狛江(こまえ)・勢多(せた)の一〇郷があった。このほか『日本霊異記』(中ノ三)には、「多麻郡鴨里」の名が見えている。
 これらの郷(里)をどこに比定するかについては、江戸時代以来、現存する地名や地勢との関係、さらには古代の集落遺跡の分布との関連などから議論されてきた。このうち小川はあきる野市小川、川口は八王子市川口町、小楊は国立市青柳、小島は調布市小島町、狛江は狛江市、勢多郷は世田谷区瀬田がその遺称地であることは、郷名の配列からいってほぼ確実であろう。
 現在の多摩市域と密接に関連するのは、小野郷である。小野郷については、宝亀三年十二月の太政官符(資一―92)や『延喜式』の神名式(資一―275)などに、多磨郡の神社として「小野神社」が見え、また十世紀以降、勅旨牧としての「小野牧」が史料に現われる(資一―305)。かつては、府中市住吉町に小野神社が存在することから、小野郷を多摩川の北岸に求める説が有力であった。しかし最近では、多摩川南岸、大栗川流域を中心とした多摩市・日野市および八王子市の一部をその中心地域とみる見解が有力になってきた(『日野市史』通史編一、小野一之「古代多磨郡の郷の分布と開発」『歴史手帖』二三-一〇 一九九五)。多摩市内、大栗川・乞田川縁辺の台地上に存在する八世紀前後の集落遺跡は、古代に小野郷を形成していた集落であろう。