牧の設置

406 ~ 409
律令制では、国家の用に供する馬牛を調達するために、牧を置くことが定められていた。諸国に牧の設置が命じられたのは文武天皇四年(七〇〇)のことで、慶雲四年(七〇七)には、摂津・伊勢など二二か国に牧が設置されていた。この令制の牧の設定は、各地の豪族層によって以前から経営されていた牧を、国家の牧として把握しなおすという形で進められたものと考えられ、これ以外にも豪族層の経営する牧がなお多数存在したものと思われる。武蔵国にあった牧の名称は、平安時代の史料からしかわからないが、牧馬に捺す焼印として令の規定どおりに「官」字の印を用いている石川牧・小川牧・由比(ゆい)牧などは、この時期から国家の牧として把握されていた可能性が高い。また檜前(ひのくま)牧や牛牧の神崎牧も、令制の牧に由来するものと思われる。
 令制の牧は、兵部省管下の兵馬司が管轄し、各国の国司が経営・管理に責任を負った。個々の牧の職員としては、牧長・牧帳・牧子が置かれた。牧長は牧の運営の責任者であり、牧帳は書記役として牧長を補佐した。牧長・牧帳は、「庶人」や外六位・勲位を持つ者のうち管理者としての人格・能力を有する者から選ばれることとなっており、郡司に準ずる程度の階層に位置しよう。牧子は、その下で牧馬の飼育その他の牧の運営の実務に従事する者で、牧馬一〇〇頭ごとに二名が定員とされた。牧長・牧帳・牧子は、職務に従事する代わりに、庸と雑徭(ぞうよう)とを免除された。ただ、牧を運営するための実務のすべてがこれらの役職者だけで処理できたとは考えられず、牧の周辺には牧馬の飼育を主たる生業とする集団が居住していたものと思われる。この牧経営集団の統率者が牧長であり、牧帳はその補佐役、牧子も集団内の有力者に相当するものであろう。
 当時の牧の実態については不明な点も多いが、多くの牧では、冬から春には牧馬を牧の周辺地域で自由に放牧させ、初夏になるとこれらの牧馬をかり集めて牧内に入れ、夏・秋は柵・土塁・堀などで周りを囲った放牧場で放牧させたもののようである。夏・秋に区画内放牧とするのは、一つにはこの時期の農作物に牧馬が害を与えないようにするためであるが、それとともに、馬の繁殖期に種馬以外の牡馬と牝馬との自由な接触を制限し、良馬を生産するために欠かせない生殖管理を行う必要からと思われる。一方、冬・春に牧外に出して自由放牧とすれば、牧馬は餌となる草木を求めて移動でき、人間の手で飼料を調達・給餌する手間を省くことができた。
 馬の生産を主たる目的とする牧では、牝馬を多く飼育し、少数の種馬を除いて牡馬は一定年齢になると牧を出され、乗用その他の用途に供された。毎年秋には国司立ち会いのもとで牧馬の点検が行われ、牧馬帳という帳簿が作成されるが、その際牧馬の選別も行われた。五歳前後となった牡馬は、体格のよい優秀なものは軍団に送られ、ないしは京に貢上された。残りは駅伝馬に充当されるか、民間に払い下げられた。京に貢上される牧馬は、牧の厩(うまや)などでその後一年間繋飼され、調教が施される場合もあった。牝馬は母馬とするため牧に残された。生殖能力を持つ牝馬(おおむね五歳から一九歳)については、一〇〇頭に対して年六〇頭の割合で子馬を出産することが求められていた。牧帳・牧子らは、この繁殖率を超えて子馬を増やすことができれば褒賞を得られたが、この割合を満たせなければ、罪を問われ不足分を弁償する責任を負わされた。
 牧には、山麓・扇状地などの傾斜地、周囲が崖となった台地、小島や海・池沼に突き出した半島状地形、大河川の川原等が利用されることが多かった。これらの土地が農作にむかず、また自由放牧中の馬が余り広い範囲に拡散しないような地形的な条件が牧に適していた。多摩川支流の秋川と平井川に挟まれた秋留台地の北端に位置する三吉野遺跡群(あきる野市)では、一〇〇~二〇〇メートル四方の周囲を堀で囲んだとみられる奈良時代の区画の遺構が発掘されている。三吉野遺跡群の周辺は、古代の小川牧の推定地に当たり、この遺構も小川牧と関連する放牧場の跡ではないかとも推定できる。発掘された堀は一部で二重となっており、もとは馬が逃げ出さないように両側に堀を持った土塁であった可能性があろう。区画の北側は平井川の崖に面しており、この面は自然地形を利用して馬の逃亡を防いでいたのかもしれない。遺構の特徴として、周囲を区画されていながら、その内部に同時代の遺物や遺構がほとんど発見されない点から放牧場跡ではないかと考えられるのである。同種の遺跡としては、中野谷地区遺跡群(群馬県安中市)、半田中原・南原遺跡(群馬県渋川市)があり、後者は上野国の有馬牧の推定地に当たる。

図4-48 三吉野遺跡群の湟の遺構