貢納制と特産品

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律令のもとでは、全国の人民はその一人一人が国家に把握され、六年ごとに戸籍が、また毎年計帳がつくられて、性別や年齢に応じて税や労役を負担することになった。
 律令に規定される人民の諸負担は、もともと各地の首長たちから服属のしるしとして大王に奉られる貢納物に由来していた。しかし八世紀に入り、律令制の体制が整うにつれて、農業生産物としての稲穀が重視され、国家財政に大きな比重を占めるようになった。
 武蔵国の田地は、十世紀につくられた『倭名類聚抄』では三五五七四町七段九六歩とされ(資一―391)、坂東八国のなかでは常陸国につぐ面積であった(表4―6参照)。農民は国家から班給された口分田を耕作し、収穫した稲のなかから段別二束二把の租(タチカラ)を納めた。
表4-6 坂東八国の田積(『倭名類聚抄』による)
国名(等級) 田積
東海道
 相模(上国) 11,236町 1段 91歩
 武蔵(大国) 35,574  7  96 
 安房(中国) 4,335  8  59 
 上総(大国) 22,846  9  235 
 下総(大国) 16,432  6  234 
 常陸(大国) 40,092  6  112 
東山道
 上野(大国) 30,937  0  144 
 下野(上国) 30,155  8  004 

 稲についてはまた、出挙(すいこ)の制度があった。これは毎年春に農民に稲を貸し出し、秋の収穫時に一定の利子を加えて返納させるもので、本来は農業生産を維持していくために行われていた慣行であったが、律令制のもとでそれは国家の制度に組みこまれ、その利稲は国家の有力な財源となった。埼玉県行田市の小敷田遺跡からは、八世紀の初期にさかのぼる、出挙に関する木簡が出土している(埼玉県埋蔵文化財調査事業団『小敷田遺跡』)。

図4―49 下総国葛飾郡大嶋郷養老5年戸籍(正倉院文書)

 国司の管理する官稲(正税)の出挙は、八世紀半ば以後とくにその充実がはかられた。武蔵国の場合、十世紀の『延喜式』によると、出挙に充てるべき本稲の額は、正税(しょうぜい)・公廨(くげ)各四〇万束、国分寺料などの雑稲三一万余束とされている(資一―286。および表4―4・5参照)。このうち公廨稲は、官物の欠負(かんぷ)・未納の充填にあてるものとして天平十七年(七四五)に設定されたが、のちにはその一部を国司の報酬とする制度が定まり、国司の収入として重視されるようになった。
 稲以外の貢納物としては、繊維製品やその土地の特産物などを納める調(ミツキ)や、力役の替わりとして布・米などを納める庸(チカラシロ)などがあった。これらは農民の労力を用いて都まで運ばれ、中央政府の財源となった。
 武蔵国の調は、最初は布(麻布)であったが、和銅六年(七一三)には相模・常陸・上野・下野の諸国とともに布・絁(あしぎぬ)の並進と定められ、翌七年から実施された(資一―19・20)。『延喜式』では絁・布のほか、緋・紺・黄・橡(つるばみ)などに染めた帛(はくのきぬ)、紺・縹(はなだ)・黄などに染めた布も納めることとされていた(資一―285)。正倉院宝物の中には、宝物を包むためなどに用いられた調庸の布が多く残されており、その中には、武蔵国の諸郡から貢納されたことを示す墨書をもつものが見うけられる(資一―55~58・61)。
表4―7 『延喜式』に見える武蔵国からの貢納物一覧
種目 内容 資料編番号
調 緋帛60疋 紺帛60疋 黄帛100疋 橡帛25疋 紺布90端 縹布50端 黄布40端 他は絁・布 24主計寮上 1-285
(夏調) 糸(麁糸) 1-283
1-285
中男作物 麻500斤 紙 木綿 紅花 茜 1-285
年料別納租穀 12,000斛 23民部省下 1-279
年料別貢雑物 筆100管 膠50斤 麻黄5斤 麻子6斗 1-280
蘇 6年ごとに20壺 1-281
交易雑物 絁50疋 布1,500端 商布11,100端 豉6石5斗 竜鬚席30枚 細貫席30枚 席500枚 履料牛皮2枚 鞦20具 鹿革60張 鹿皮15張 紫草3,200斤 木綿470斤 櫑子4合 1-282
年料雑薬 枸杞・桔梗・大黄・麻黄など28種 37典薬寮 1-298
年貢御馬 50疋(諸牧30疋 立野牧20疋) 48左右馬寮 1-300


図4-50 正倉院宝物中の布に見える墨書

 令制ではまた、調の副物(そわつもの)として染料や油、薬用品・塗料などを奉る定めであったが、養老元年(七一七)これを廃止し、一七歳以上二〇歳以下の男子(中男)の調も廃止して、かわりに中男作物(ちゅうなんさくもつ)として中央官庁の必要とする物品を貢納させた。『延喜式』による武蔵国の中男作物は、麻(お。大麻の茎の皮からとった繊維)・紙・木綿(ゆう)、染料としての紅花・茜(あかね)であった(資一―285)。木綿は楮(こうぞ)の樹皮からとった繊維で、祭祀に用いられ、東国のものはとくに東木綿(あずまのゆう)とよばれて珍重された。
 このほか中央政府は、その必要とする物品や各地の特産品を国司の管理する正税を用いて交易によって入手させ、それを貢上させた。これが交易雑物の制度である。武蔵国の交易雑物は、絁・布・商布(交易用の布)のほか、調味料としての豉(くき)、各種の席(むしろ)などの敷物、履に用いる牛皮、馬具である鞦(しりがい)、鹿革・鹿毛皮、染料としての紫草、櫑子(らいし)とよばれる漆器などであった(資一―282)。正倉院宝物には、屏風の下張りに武蔵国から貢上された交易布が用いられた例がある(資一―63)。また年料別貢雑物や年料雑薬などの制度もあり、筆・膠(にかわ)・薬草、乳製品としての蘇などが毎年貢上されていた(資一―280・281・298)。
 八世紀の後半になると、調庸のかたちをとる貢納制は社会の変化とともに機能しなくなり、調庸の粗悪や違期・未進が目立つようになった。政府は正税を用いた交易による物資の調達を重視するようになり、九世紀には交易制が調庸制に替わる位置を国家財政に占めるようになった。本来は調庸として貢進されていた絁・布なども、交易による貢進にその主体が移っていった。『延喜式』にはまた年料別納租穀という制度があるが、これは本来は調庸の布・絹などで支給すべき官人の給与を、まだ精白していない穀のまま現地で支給するもので、これも中央財政の負担を軽減するために九世紀になって始まった制度であると考えられる(資一―279)。