木簡と武蔵国

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飛鳥京・藤原京・平城京・長岡京などの都城遺跡からは、諸国からの貢進物品に付けられていた荷札の木簡があいついで発見されており、その中には武蔵国からのものも見出される。

図4―51 平城宮・平城京跡出土の木簡

 木簡で注目されるのは、律令の貢納品目にはない、贄(にえ)についての木簡が数多く見られることである。贄は、天皇の食膳に供する食物を、地方首長がその服属のしるしとして貢上したことに由来するもので、戸や個人ではなく、郡もしくは郷里から貢上されるところにその特色がある。贄は藤原宮木簡では大贄、平城宮木簡では御贄(みにえ)と記されるのが一般であるが、武蔵国の場合、平城京木簡でも大贄と記すのが一つの特色であるとされている(鬼頭清明「武蔵国男衾郡の木簡について」『埼玉県史だより』一三)。
 武蔵の贄関係の木簡としては、平成七年(一九九五)に飛鳥京跡から出土した、「无耶志国仲評中里布奈大贄一斗五升」と記したものがもっとも古い例である(一九九五年度木簡学会研究集会報告)。「布奈」は鮒で、平城宮跡からも男衾(おぶすま)郡川面郷が貢上した鮒背割の大贄の荷札が出土している(資一―49)。
 武蔵国からの贄としては、秩父郡・男衾郡などからの豉(くき)も見られる(資一―46・48ほか)。豉は豆から作られる一種の調味料で、『延喜式』の交易雑物にも見られ(資一―282)、相模・武蔵両国の特産物であった。そのほか木簡に見られる武蔵国からの貢上品としては、菱子(ひしのみ)(資一―26)、蓮子(はすのみ)(足立郡からの土毛。資一―38)、茜(あかね)(橘樹郡。資一―40)、蒜(ひる)(荏原郡からの贄。資一―41)などがあり、また藤原宮跡からは、烏頭・桔梗などの薬物の木簡も出土している(資一―17・18)。これらの中には、『延喜式』の中男作物や年料雑薬に共通する品目も見うけられる(資一―285・298)。
 律令制のもとでは、皇族や貴族たちへの優遇措置として、食封(じきふ)(封戸(ふこ))の制度が設けられていた。食封は、定められた数の戸から徴収される租の半分と、調庸のすべてをその封主の収入とするもので、品階・位階に応じて与えられる品封・位封、官職に応じて与えられる職封、功績をあげた人物に与えられる功封、寺社に対して与えられる寺封・神封などがあった。封戸の租については、和銅七年(七一四)以後全給の例が始まり、天平十一年(七三九)以後は、諸家の封租はすべて全給とされた。
 隣国の相模国の場合、天平七年度の封戸租交易帳によると、八郡にわたり、皇后藤原光明子・舎人(とねり)親王・右大臣藤原武智麻呂(むちまろ)などの人物の封戸が合計一三〇〇戸も存在していた。一郷(里)五〇戸として二六郷となり、相模国全戸のほぼ三七パーセントが諸家の封戸とされていたことになる。武蔵国の場合、大安寺・元興寺・東大寺などの寺院の封戸(資一―51・52・53)や、氷川(武蔵国)・大和(大和国)・枚岡(ひらおか)(河内国)などの神社の封戸(資一―77・131・274)のあったことは知られるが、皇族・貴族の封戸があったかどうかは定かでない。しかしかなりの封戸が存在していた可能性が考えられる。
 昭和六十一年(一九八六)から発掘が行われた平城京左京三条二坊の邸宅の遺構は、調査の結果、八世紀前半の皇族、左大臣長屋王の邸宅の跡であることが判明した。その遺構からは大量の木簡が発見され、それによって、いままで知られることの少なかった当時の皇族や高級貴族の家の経済や生活の実態が明らかにされることになった。
 長屋王邸跡から出土した木簡には、「武蔵税司」と記されたものがあり(資一―34)、また「津税司」「伊勢税司」「下総税司」と記された木簡も出土している。「税司」は、諸国が正税を用いた交易によって必要とする物品を入手し、それを中央に送ることを任務とした役所であろうが、同時に、諸家が諸国にもっている封戸の租を、交易によって必要なものに換えて都に送るという役割をも担っていたのではあるまいか。
 長屋王は二四五〇戸、その室吉備内親王は三〇〇戸もの封戸を有していたと考えられ、封戸からの収入は王家の財政の大きな部分を占めていた(奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸宅と木簡』)。おそらく武蔵国にも長屋王の封戸が存在し、その財政の一翼を担っていたのであろう。