律令制のもとで、人々はまた、各種の労役を国家に対して奉仕しなければならなかった。
律令の規定では歳役があり、これは中央に出て労役に奉仕するものであるが、実際には庸(チカラシロ)の布・米を納めることになっており、直接労役にたずさわることはなかった。これらの庸布・庸米は中央に貢進され、仕丁(しちょう)・衛士(えじ)の食料や、雇役丁に支給する賃金に充てられた。
人々にとって重い負担であったのは、調庸を都に運ぶ運脚のしごとであった。人々は郡司や国司に率いられ、重い荷物を負って都に向かった。『延喜式』では、武蔵国から平安京まで、往路は二九日、帰路は一五日とその行程が定められている(資一―285)。とくに八世紀のはじめ、平城遷都の前後には、都からの帰路、食糧が尽きて路頭に餓死する役民が続出し、大きな政治問題になった。
朝廷の雑務に奉仕する役夫を差しだすことも、律令制以前から地方の農民が負っていた負担であり、律令制のもとでは、官庁に勤務する仕丁と、都城の警衛に当たる衛士とに分化した。武蔵国からも仕丁の貢進されていたことは、正倉院文書のなかの貢進仕丁歴名帳の断簡によって知ることができる(資一―59)。律令にはまた、年間六〇日を限度として国司に徴発され、国内の道路や堤防の修理などの労役にあたる雑徭(ぞうよう)の規定もあった。
人々の国家の対する義務として大きな意味を担っていたのは、兵役であった。律令の規定では、全国の正丁(二一歳以上六〇歳以下の男子)を一戸につき三丁に一人の割合で兵士に徴発し、軍団に配属させた。兵士は軍団に勤務して訓練を受けるほか、国衙や武器庫の警備、犯罪人の護送などの任務につき、有事の際には征討軍に組織されて、蝦夷(えみし)・隼人(はやと)の征討や内乱の鎮圧にあたった。ことに武蔵国を含む東国の兵士は、後に述べるように、防人(さきもり)となって九州へ赴き、また鎮兵となって東北の蝦夷の征討にあたるという、大きな任務を負うことになった。
武蔵国の軍団については、具体的な名前の判るものはないが、駿河国の安倍団、出雲国の意宇(おう)団、筑前国の御笠団など他の国の例から見ると、国府の置かれた郡には軍団のあるのが一般である。従って、国府の置かれていた多磨郡に「多磨団」が置かれていた可能性は、きわめて高い。