このように人々の上に重くかかっていた租税や労役の負担は、人々の疫病や災害に対する抵抗力を弱めさせ、天候が不順であるとすぐに飢饉が起こった。災害がおこると、政府は租や調庸を免除して人々の負担を軽減し、また飢えに苦しむ人々のために倉を開いて米を支給する、いわゆる賑給(しんごう)を行った。
武蔵国の場合を見ると、和銅七年(七一四)には大風のため租・調を免除する措置がとられ(資一―21)、飢饉のあった延暦十六年(七九七)には、国司の管理する稲を貧民に売り与えることが命じられている(資一―122)。同二十二年には、田を損じた人々の租税を免じて調だけを納めさせる措置がとられ(資一―126)、貞観元年(八五九)には、前年秋の水害に被害を受けた人々への賑給が行われている(資一―191)。同七年には旱(ひでり)と霜の害のため一年間の課役の免除が行われ(資一―208)、翌八年にも、前年の風雨とこの年の飢饉・干害のため、賑給が行われた(資一―212)。
人々にとくに大きな被害を与えたのは、地震である。ことに九世紀の日本列島では火山活動が活発で、貞観六年の富士山、同十三年の鳥海山、同十六年の開聞岳、仁和三年(八九一)の伊豆諸島などと火山の噴火があいつぎ、それにともなって大きな地震がしばしば起こった。弘仁九年(八一八)には相模・武蔵・下総・常陸・上野・下野の関東一円に大地震があり、山谷の崩壊によって多くの人々が圧死した(資一―138)。さらに元慶二年(八七八)九月二十九日の夜にはふたたび関東諸国に大地震がおこり、ことに相模・武蔵両国の被害が著しかった。余震が五、六日も続き、屋舎の倒壊、土地の陥没、道路の不通、圧死者の続出など、数えきれないほどの被害であったと伝えられる(資一―232)。