東歌と人々の暮らし

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八世紀の東国の人々の姿は、『日本霊異記』に載せるいくつかの説話や、『万葉集』巻十四に載せる東歌などからも察することができる。
 『万葉集』の東歌は、中央の官人たちが、東国の異種の言語や風土への関心から収集・編纂したもので、全部で二三一首からなっている。編纂に当たっては、まず歌詞に含まれている地名などによって、遠江・信濃以東の国ごとに歌を分類・配列し、国名の判明しない歌については「国名未勘」としてそのあとに配置している。その分類が行われたのは、武蔵国が東海道の国として扱われていることから推して、武蔵国が東山道から東海道に移った宝亀二年(七七一)以降のことと考えられる。
 東歌のうち、武蔵国の歌は九首が国別の項に収められており、国名未勘の項にも、武蔵国のものと推定できる歌が含まれている。
 多摩川に 晒(さら)す手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛(かな)しき
 (多摩川に晒す手作りの布のように、どうしてさらにさらにこの子がこれほど愛らしいのだろう)(三三七三)
 東国の人々にとって、麻布の生産は一つの大切な日々の仕事であった。麻布は調や庸として都に貢上されるとともに、また商布として交易にも用いられた。調布市の「布田」や、「麻布」など、東京都内には、麻の生産と関連すると見られる地名が今も数多く残されている。
 多摩川の清洌な流れとそこに晒される麻布の白さ、そして恋人を思うひた向きな気持ちとが強く印象づけられる、東国の生活に根ざした美しい歌である。
 東歌のなかには、そのほかにも、
 稲舂(つ)けば 皹(かか)る吾が手を 今夜(こよい)もか 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ(三四五九)
 鳰鳥(におどり)の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にえ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(三三八六)
 誰そこの 屋の戸押そぶる 新甞(にうなみ)に わが背(せ)を遣(や)りて 斎(いわ)ふこの戸を(三四六〇)
など、農耕と農耕儀礼に関するものや、
 庭にたつ 麻布小衾(あさてこぶすま) 今夜(こよい)だに 夫(つま)寄しこせね 麻布小衾(三四五四)
 麻苧(あさお)らを 麻笥(おけ)に多(ふすさ)に 績(う)まずとも 明日着せさめや いざせ小床(おどこ)に(三四八四)
など麻布の生産に関するもの、さらに
 春の野に 草食む駒の 口やまず 吾(あ)を偲ぶらむ 家の児ろはも(三五三二)
 柵(くえ)越しに 麦食(は)む小馬の はつはつに 相見し子らし あやに愛(かな)しも(三五三七)
といった馬の飼育に関するものなど、東国らしいさまざまな生産活動とその中に暮らす人々の心とがよく示される歌が含まれていて、八世紀の東国の人々の生きた姿をわれわれに伝えてくれる。