朝鮮と東国

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五世紀の朝鮮半島には、高句麗・百済・新羅の三国があり、また南端の加羅地方には、多くの小国が分立していた。弥生時代以来、日本と朝鮮とは緊密な関係にあったが、日本列島の主要な地域を服属させた大和政権は、朝鮮の諸国とも政治的・軍事的に深く関係するようになった。
 『日本書紀』の神功皇后紀には、百済・新羅との外交に活躍した人物として、千熊長彦(ちくまながひこ)の名が見える。長彦は百済の肖古王と交渉して日本への春秋の朝貢を約させ、これに応じて百済王は、七枝刀(ななつさやのたち)一口と七子鏡(ななつこのかがみ)一面とを朝廷に献上したという(四十七年四月、四十九年三月、五十年五月、同五十一年、五十二年九月の各条)。石上神宮に現存する七支刀の銘文との関連などから、これらは西暦三六七年から三七二年のことと考えられるが、『日本書紀』の分註には、長彦は一説に武蔵国の人で、『百済記』に「職麻那々加比跪」とあるのが長彦のことかとしている。百済との外交関係に活躍した実在の人物である可能性が高い。また『日本書紀』の継体・欽明紀には、六世紀の百済の朝廷に仕えた官人として、「科野(しなの)阿比多」「科野次酒」などの名が見える。これらは信濃出身の人物と考えられる(坂本太郎「古代信濃人の百済における活躍」『古典と歴史』)。千熊長彦と武蔵との関係については十分な支証を欠くが、関東地方も、東アジアの世界とかなり早い時期から関係をもっていた可能性がある。
 五世紀から六世紀にかけて、朝鮮からは多くの人々が日本に渡来した。大和政権は大和やその周辺の地域に彼らを居住させ、農業や土木、陶器や織物の生産、さらには文筆など、彼らの持つすぐれた技術を政権のために生かそうとした。
 この時期、関東地方では、北関東のいわゆる毛野の地域に大きな古墳が数多く造られ、古墳文化の一つの中心をなしていた。それらの古墳の副葬品には、騎馬戦に適した武具である挂甲や各種の馬具、精巧な金銅製の冠や耳飾り、硬質の土器である須恵器など、朝鮮文化の影響を受けた、また騎馬の風習と関係の深い遺物が数多く認められる。このような朝鮮系の文化を担うものとして、各種の技術をもった渡来人が、五、六世紀の段階から北関東の地域に居住していた可能性が考えられる。
 五世紀から六世紀にかけての武蔵は政治的・文化的に毛野との関係が深かったから、このような動きは武蔵の地域にも及んだであろう。狛江古墳群の一つである狛江市の亀塚古墳からは、毛彫りで馬などを描いた金銅製の飾り金具が出土しており、多摩市和田の塚原古墳群の三号墳・六号墳からも、大陸文化の影響を受けた金銅製の耳飾りが出土している。