図4―53 高麗神社(埼玉県日高市)
図4―54 聖天院(埼玉県日高市)
この高麗郡から出た高句麗の王族に、肖奈公(しょうなのきみ)(肖奈王)氏がある。その祖福徳は高句麗滅亡のおり渡来して武蔵に住んだというが、上述の若光との関係は未詳である。「肖奈」は高句麗の地方行政区画であり部族の別でもあった五部の一つの「消奴部」に由来すると考えられる(今まで「肖奈」は「背奈」とされてきたが、「肖奈」が正しい)。
肖奈公氏の人で八世紀前半に活躍したのは、行文であった。行文は儒教の学者で、明経博士となり、また文学の才があった。養老三年(七一九)のことかとされる、長屋王宅での新羅の客を宴する詩苑で五言の詩を詠み(『懐風藻』)、神亀四年(七二七)には従五位下に叙せられた。
図4―55 『懐風藻』に見える肖奈行文の詩
行文の甥で、福徳の孫に当たるのが福信である。福信は伯父行文に従って武蔵から上京し、たまたま路上での相撲でその力が認められ、内豎(ないじゅ)として宮廷に出仕した。福信は聖武天皇の信任をうけ、皇太子阿倍内親王に仕えて春宮亮(とうぐうのすけ)となり、阿倍内親王が孝謙天皇として即位した天平勝宝元年(七四九)には光明皇太后の執政の機関として新設された紫微中台(しびちゅうだい)の少弼(しょうひつ)となり、また武官である中衛少将を兼ねた。福信は天平十九年(七四七)には肖奈王、天平勝宝二年には高麗朝臣(こまのあそん)、さらに宝亀十年(七七九)には高倉朝臣の姓を賜わった。福信は多くの政変を切り抜けて栄進を重ね、延暦四年(七八五)、弾正尹(だんじょうのかみ)従三位兼武蔵守のときに上表して官を辞し、同八年、八十一歳で没した(資一―114)。
福信が武才に秀でていたことは、天平宝字元年(七五七)の橘奈良麻呂の変にあたり、奈良麻呂方の賀茂角足(かものつのたり)が、坂上苅田麻呂・牡鹿嶋足(おしかのしまたり)や福信らを酒宴に招き、武力行動の現場に居合わせないように画策したという話からも察せられる。坂上苅田麻呂は田村麻呂の父で東漢氏(やまとのあやうじ)に属し、また牡鹿嶋足は陸奥の豪族で、いずれも武力的才能にたけた人物であった。
福信の同族には、東大寺写経所の官人などを勤めた広山や、造東大寺司の判官・次官、それに武蔵介などを勤めた大山などがいる。大山は天平宝宇五年、遣高麗大使となって渤海に渡ったが、帰途病にかかり、翌年没した。また同族の殿嗣(とのつぐ)も宝亀八年(七七七)、渤海使を送る使として渡海している。
このように肖奈公(高麗朝臣・高倉朝臣)の一族は、大陸文化の保持者として、また武力的才能にすぐれた者として、さらには高句麗の故地に建国した渤海国との交渉にあたる者として、各方面に活躍した。それは基本的には中央官人としての活躍と言えるが、彼らの中には武蔵守・武蔵介となった者も多く、また八世紀後半には、入間広成(いるまのひろなり)・丈部不破麻呂(はせつかべのふわまろ)などほかにも武蔵国の出身者が中央官人として活躍していたから、これらの人々の活躍は、武蔵国の政治的な動きにも大きな影響を与えたと考えられる。
この後九世紀に入ると、新羅では国内の治安が乱れ、混乱を避けて日本に渡来する新羅人が増えた。弘仁七年(八一六)には清石珍ら一八〇人、同八年には金男昌ら四三人、遠山知ら一四四人が日本へ帰化している(『日本紀略』)。朝廷は最初、これらの新羅人を東国に居住させる政策をとったが、異国での困難な、隔絶した生活のため、弘仁十一年(八二〇)には遠江・駿河両国の新羅人七〇〇人が反乱し、相模・武蔵など七国の兵がその追討にあたる事件がおきた(資一―139)。これ以後朝廷は、新羅人をより遠方の陸奥国に配する政策をとり、さらに渡来する新羅人の帰化を認めずに追却する閉鎖的な政策をとるようになった。