多摩の渡来人

425 ~ 427
古代の多摩では、武蔵のほかの地域と同じく、渡来人が住んで文化や産業の発展に寄与したことが推測される。
 『日本霊異記』によると、多磨郡の鴨里に吉士大麻呂(きしおおまろ)という人があった(中ノ三)。武蔵にはこのほかにも、橘樹(たちばな)郡の人飛鳥部吉志五百国(あすかべのきしいおくに)(資一―84)、男衾(おぶすま)郡榎津(えなつ)郷の人で同郡の大領を勤めた壬生吉志(みぶのきし)福正(資一―157・164)など「吉士(吉志)」の姓をもつ者があり、これは古代の武蔵国の一つの特色となっている。
 『日本書紀』には、吉士長丹(きしのながに)・吉士磐金(いわかね)など「吉士(吉志・吉師)」をウジナとする者があり、また難波吉士・三宅吉士・草壁吉士など「吉士」をカバネとする者があって、六・七世紀にわたり、難波(なにわ)(大阪市)を本拠として、海上交通や外交・軍事に大いに活躍した。「吉士」は古代朝鮮では在地の支配者を意味する語で、新羅の冠位の称にも見えている。『新撰姓氏録』では吉志を大彦命(おおひこのみこと)の後とし、渡来系の氏とはしていないが、おそらく吉士を管理した阿倍氏の祖とされる大彦命をその祖と仮冒したもので、渡来系である可能性が高い。
 「吉士」をカバネとする武蔵の諸氏も、朝鮮から渡来してこの地に住みついた人々であろう。六世紀に大和政権がおこなった屯倉の設置との関連を推測する説もある。
 『倭名類聚抄』(和名抄)によると、古代の多磨郡には「狛江郷」があった。狛江郷は多摩川中流、現在の狛江市を中心とする地域にあった郷で、狛江の「狛」は高句麗、「江」は岸辺を意味している。高句麗からの渡来人の一部がここに居住し、農業や物資の輸送などの仕事に従事したことが考えられる。
 古代狛江郷の地域に含まれる調布市の深大寺には、関東における白鳳彫刻の白眉とされる、隋末唐初の様式を受けつぐすぐれた金銅の釈迦如来像がある。この仏像の由来は詳しくはわからないが、畿内から招来された仏像であるにしても、それを祀る寺院がこの地に存在し、それがこの地に住む渡来人によって支えられていたことは、大いに考えられることであろう。

図4―57 深大寺金銅釈迦如来像