国司と按察使

428 ~ 432
八世紀にはいると、日本の古代国家は急速にそのかたちを整えた。国家の中心として奈良に平城京が造営されるいっぽう、地方に対しては農業や諸産業の発展が促され、駅の制度によって中央と地方との連絡の強化がはかられた。
 和銅元年(七〇八)に武蔵国秩父郡から和銅が貢進され、これを記念して年号が和銅と改められたことは、このような動きを象徴するできごとであった(資一―14)。これを機に和同開珎(わどうかいちん)の鋳造が始まり、新しい銭貨は、雇役民への給与の支払いや市での交易に利用されて、新都平城京の機能を高めるうえに大きく貢献した。
 八世紀の中ごろ、聖武天皇の時代には、奈良の都を中心に、天平の貴族文化の花が咲いた。この頃には地方でも、国司の力がようやく強まり、郡司が持っていた人民への支配力をしだいに自分のものにしていった。それまで郡司が管理していた郡稲が、国司の管理する官稲(正税)に編入され、また天平十七年(七四五)には公廨稲(くげとう)の制度がつくられて、国衙の財政的な基礎がつくられた。考古学的にも、諸国の国衙の確実な遺構は、八世紀中ごろから出現するといわれる。
 前に述べたように、武蔵国は『延喜式』では大国とされていた(資一―277)。令の制度では国の等級によって職員の構成や位階に差があり、大国の職員は守(かみ)・介(すけ)・大掾(だいじょう)・少掾(しょうじょう)・大目(だいさかん)・少目(しょうさかん)各一人、史生(ししょう)三人、守の位階は従五位上と規定されている。しかし国の等級と国司の定員とは必ずしも一致せず、武蔵国の場合、天平十年(七三八)の上階官人歴名(資一―44)には、介・大目・少目とともに、本来上国・中国の制である掾の官が見えている。少掾や大掾の官が現われ、大国としての官制が整うのは、八世紀後半のことであった。
 なお国府には、このほか国博士・国医師などの職員や、雑務にたずさわる雑掌など、多くの人々が勤務していた。
 武蔵の国守として最初に名が見えるのは、大宝三年に任命された引田祖父(ひけたのおおじ)で、以後八世紀には、表4―8に示すような国司の名が史料に見えている。八世紀の前半に、多治比県守(たじひのあがたもり)・粟田人上・紀清人・平群(へぐり)広成・石川麻呂など四位の位をもつ有力貴族が多く国守に任命されていることは、武蔵国の地位の高さを示していよう(土田直鎮『古代の武蔵を読む』 一九九五)。また注目されるのは、武蔵国出身の渡来系氏族である高倉(高麗)福信が、天平勝宝八歳(七五六)、宝亀元年(七七〇)、天応元年(七八一)、延暦二年(七八三)と四度にわたって武蔵守をつとめていることで、後に述べるように、国分寺の造営や、その所属を東山道から東海道へ変えるというような、武蔵国にとって重要な政策の遂行に、福信が国守として大きな関わりをもったことが推測される。
表4-8 武蔵国司在任者一覧(8世紀)
官職 姓名 月日 出典 資料編番号 備考
大宝3(703) 引田朝臣祖父 7.5任 続日本紀 1-12
和銅元(708) 当麻真人桜井 3.13任 1-15
霊亀元(715) 大神朝臣狛麻呂 5.22任 1-22
養老3(719) 多治比真人県守 7.13見 1-27
天平3(731) 布勢朝臣国足 5.14任 1-35
天平10(738) 多治比(真人)東人 4.22任 正倉院文書 1-44
秦 国桙 4.22任 1-44
少目 船 倉人 4.22任 1-44
粟田朝臣人上 6.1没 続日本紀
多治比真人広足 8.10任 1-45
天平18(746) 紀朝臣清人 5.2任 続日本紀 1-47
天平勝宝4(752) 平群朝臣広成 5.26任 1-54
天平勝宝5(753) 史生 佐味朝臣比奈麻呂 11月見 正倉院宝物 1-56
天平勝宝6(754) 石川朝臣麻呂 9.4任 続日本紀 1-60
天平勝宝7(755) 安曇 三国 2.20見 万葉集
天平勝宝8(756) 巨万朝臣福信 7.8見 法隆寺献物帳
史生 秦 男口 11月見 正倉院宝物
天平宝字3(759) 三島真人廬原 7.3任 続日本紀 1-66
天平宝字5(761) 高麗朝臣大山 10.1任 1-71
天平宝字8(764) 石川朝臣名人 3.9没
石川朝臣人成 4.11任 1-74
天平神護2(766) 巨勢朝臣公成 3.26任 1-76
神護景雲元(767) 藤原朝臣雄田麻呂 2.28見
員外介 弓削御浄朝臣広方 8.29任 1-78
神護景雲2(768) 藤原朝臣雄田麻呂 2.18任 1-81
弓削御浄朝臣広方 4.12任 1-83
員外介 内蔵忌寸若人 4.12任 続日本紀 1-83
員外介 長谷真人於保 閏6.3任
少掾 林連広山 閏6.3任
宝亀元(770) 高麗朝臣福信 8.28任 1-86
宝亀2(771) 員外介 多治比真人乙兄 7.23任 1-87
員外介 安倍朝臣浄目 8.3任 1-88
宝亀3(772) 安倍朝臣浄目 4.20任 1-90
員外介 佐伯宿禰藤麻呂 4.20任 1-90
員外介 文室真人子老 5.10任
宝亀5(774) 藤原朝臣浜成 3.5任 1-94
布勢朝臣清直 3.5任 1-94
宝亀9(778) 高麗朝臣石麻呂 2.4任 1-100
笠王 2.23見
天応元(781) 高麗朝臣福信 5.4任 公卿補任
石川朝臣真守 5.25任 続日本紀 1-104
巨勢朝臣池長 5.25任 1-104
延暦元(782) 健部朝臣人上 6.20任 1-106
延暦2(783) 高倉朝臣福信 6.21任 1-107 もと高麗朝臣
延暦4(785) 石川朝臣垣守 4.29任
大掾 白鳥村主元麻呂 10.12任 1-110
延暦5(786) 阿保朝臣人上 8.8任 1-111 もと健郎朝臣
紀朝臣楫人 8.8任 1-111
延暦7(788) 石川朝臣豊人 2.6任 1-113
延暦9(790) 都努朝臣筑紫麻呂 3.10任 1-115
延暦10(791) 多治比真人宇美 7.28任 1-116・118
延暦13(794) 甘南備真人清野 この年没 続日本後紀
延暦17(798) 藤原朝臣道雄 2.6任 公卿補任

 養老三年(七一九)には按察使(あぜち)が設置された。これはそれまでの巡察使に代わる国司監察の制度で、有力な国守に近隣の数国を管轄させ、国司の政治の状況を監視させるものであった。関東地方では常陸守藤原宇合(うまかい)が安房・上総・下総の三国を管し、武蔵守多治比県守が相模・上野・下野の三国を管した(資一―27)。宇合や県守はいずれも名族の出身で少壮有為の官僚であり、とくに県守は遣唐使として渡唐し、養老二年に帰国したばかりであった。按察使は本来中国の制度で、養老の按察使の設置は県守らの献策によるものと推測されている。この按察使の制度はしかし永続きせず、またもとの巡察使の制度が復活した。その理由としては、按察使の活動がそれに任じられた国守の力量に左右されること、かつそれに足るだけの力量を持つ官人が少なかったことが考えられよう。
 また八世紀後半には員外の国司(とくに介)が多く見られるが、これは当時、専制的な政治のなかで位階が濫授され、そのために増加した官人を名目的に国司に任じ、公廨稲(くげとう)などの配分に預からせたものであった。このため、財政の緊縮政策がとられた光仁・桓武朝には設置が抑制され、宝亀五年(七七四)には歴任五年以上の員外国司が解任され、天応元年(七八一)にはすべての員外官が廃止されることになった。
 これより先、宝亀六年には武蔵国の少目が二員に増員された(資一―96)。この時は全国にわたり、四〇数人の目(さかん)が増員されている。これは当時、国司による地方政治が軌道に乗り、国務が繁忙になってきたという事情もあるが、同時に員外官の抑制によってはみ出した官人を救う意味もあったと考えられる。