国分寺の造営

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八世紀(奈良時代)に多磨郡でおこった大きなできごとの一つは、国分寺の造営である。国分寺の造営は聖武天皇によって企図されたもので、国ごとに僧寺と尼寺とを置き、金光明最勝王経を安置する七重塔を建立して、国家の鎮護を祈ろうとするものであった。その計画が最終的に固まったのは、天平十三年(七四一)のことである。当時は飢饉や疫病、新羅との関係の緊迫などから社会不安が高まり、天平九年には疫病で藤原不比等(ふひと)の四子など多くの人命が失われ、また同十二年には、天皇の政治に不満をもつ藤原広嗣(ひろつぐ)が九州で乱を起こした。仏教への信仰の篤い聖武天皇は、このような政治的・社会的な動揺を、仏教の鎮護国家の力で克服しようと図ったのである。
 国分寺の造営は、他面、中央集権国家の威容を地方の人々に誇示しようとする狙いをももっていた。当時の地方社会では、郡司などの豪族層の建立した寺院が、民衆の仏教信仰の中心であった。七世紀後半から八世紀にかけて建立されたそれらの寺院の多くは、仏像を祀る金堂(こんどう)と三重塔、それにいくつかの堂舎からなる小規模なものであった。このようななかに、七重塔をもつ巨大な寺院が国家の手で建立され、国府と並んで輪奐の美を輝かすことになったのである。それは地方の人々に天皇を中心とする国家権力の強さを認識させ、郡司の民衆支配に、信仰の面から強力なくさびを打ちこむものとなったと思われる。
 武蔵国分寺は、国府の北方、現在の国分寺市から府中市北部にかけての地に造られた。その跡は、東日本旅客鉄道(JR)中央本線の国分寺駅・西国分寺駅間の南方、台地の上端部から下の平坦地にかけ、東西二キロ、南北一・五キロの範囲に広がっている。この地は大正十一年(一九二二)に史跡に指定され、本格的な発掘調査は昭和三十一年(一九五六)から開始された。南北に走る府中街道をはさんで、東に僧寺、西に尼寺の跡があり、僧寺は南門・中門・金堂・講堂が南北の中軸線上に並び、東に離れて七重塔の跡がある。七重塔の心礎は二・一二×一・三六メートルの巨大なもので、塔は承和二年(八三五)雷火によって焼け、のち前男衾(おぶすま)郡大領の壬生吉志(みぶのきし)福正が再建を朝廷に願い出て許されている(資一―164)。その他、東僧房と思われる建物の跡や、工房と思われるものを含む掘立柱建物や竪穴住居の跡、さらには掘立柱の列や溝などの区画施設の跡も検出されている。また尼寺跡では、金堂・講堂・尼房の跡などが確認されている。

図4―58 武蔵国分寺跡の現況(金堂跡と塔跡)

 僧寺と尼寺との間には、幅約一二メートルの道路跡が南北に貫いている。これは上野国から武蔵国府に至る東山道支道で、国府に通う人々は、台地の緑を背景に建つ国分寺の威容をまのあたりにしたのである。
 天平勝宝八歳(七五六)、聖武上皇が没したのをうけて、諸国国分寺の仏像・堂舎の造営を促進するようにとの命令が出された。武蔵国分寺の伽藍の造営は、出土する瓦の様式などから、そのころ武蔵守を兼ねていた武蔵出身の高麗福信(こまのふくしん)の主導によって進められたものと考えられている(『国分寺市史』上 一九八六)、尼寺跡に近接する府中市武蔵台遺跡の住居跡から、天平宝字元年(七五七)の暦と思われる漆紙文書が出土したことは、このような推測を支えるものとなっている。

図4―59 具注暦漆紙文書(武蔵台遺跡出土)

 武蔵国分寺について注目されることは、郡名・郷名・人名などを記した文字瓦を含む、大量の瓦が出土することである。これらの郡名・郷名・人名はいずれも瓦を国分寺に進上したその主体を示すもので、瓦の製造や国分寺造営のありかたを知るための貴重な資料となっている。
 国分寺に用いられた文字瓦には、印を捺したもの、ヘラ書きしたものなど各種のものがある。多磨郡の郡名を記したものに「多」「多麻」「玉」「多瓦」などがあり、また「小野郷」と、郷名を記したものもある。

図4―60 武蔵国分寺跡出土の瓦とその文字

 これらの瓦を生産したのは、武蔵国内のほぼ四か所の瓦窯群であったと思われるが(『国分寺市史』上)、なかでも国分寺に近く、瓦窯を設けるのに適していたと思われる南多摩地域は、その主要な生産地の一つであった。とくに多摩市域に接する稲城市大丸遺跡の瓦窯跡は、昭和三十一年(一九五六)以後いくたびか発掘調査が行われ、武蔵国分寺を主要な供給先とする瓦窯であることが判明している。
 これらの瓦の生産は、郡を単位に、人々を駆使して行われ、各郡には生産の責任者として「瓦長」が置かれた。
 「多」「玉」と記した瓦が入間郡(埼玉県)の瓦窯跡から出土しているように、一つの郡の瓦はある一つの瓦窯だけで生産されたものではなく、また瓦窯は、その属する郡の瓦だけを生産したものでもない。とくに多磨郡の瓦は納入すべき数が多かったためか、多磨郡のほか入間郡・比企郡の諸瓦窯でも生産されている。このように国分寺の造営は、武蔵国内の資財や設備、人々の労働力を結集して行われた大事業であった。