図4―61 武蔵国周辺の駅路推定図
(中村太一「武蔵国豊島郡における古代駅路の歴史地理学的考察」所載の図を参考にして作成。)
武蔵国が東山道に属していたことによって、それまでは武蔵より遠方の下野・陸奥・出羽の諸国に赴く使も、いったん武蔵国府に至り、また引返して下野国に至っていたのである。これは武蔵以遠の東山道諸国にとってははなはだ不便なことであった。ことに抵抗する蝦夷の鎮圧が大きな政治的課題となった八世紀後半には、東北の陸奥・出羽への命令の伝達、現地からの報告の上申、物資や兵員の輸送など、多くの面で障害になったに違いない。宝亀二年のこの措置によって、武蔵国と都との距離が大幅に短縮されたばかりでなく、東北地方と坂東諸国、さらには都との連絡が大きく改善されることになった。この前年には武蔵国出身の高麗福信が武蔵守に任じられており、この措置も、武蔵の事情に通じた福信の献策によるものであろう。
これより先、神護景雲二年(七六八)、東海道巡察使紀広名(きのひろな)の奏上によって、下総国の井上・浮島・河曲(かわわ)三駅と武蔵国の乗瀦(あまぬま)・豊島(としま)二駅とは東海・東山二道を承けて使命繁多であるとして、中路に準じ馬一〇疋を常置することが定められた(資一―82)。中路とは駅路の等級で、各駅に馬一〇疋を置くものであり、東海道・東山道が中路とされていた。
これらの諸駅のうち、豊島駅は、近年の発掘調査によって北区西ケ原の御殿前遺跡が豊島郡家に比定されることから、その付近にあったことが確実であり、下総国の井上駅も、やはり「井上」と記した墨書土器の出土から、現在の江戸川東岸、下総国府に近い千葉県市川市内にあったと推定されている。乗瀦駅については諸説があるが、武蔵国府から豊島駅を経て下総国府に至る線上の、現在の杉並区天沼・本天沼の地に比定した坂本太郎の説(「乗潴駅の所在について」『坂本太郎著作集』八)がもっとも穏当であろう。
前にも述べたように、本来の東海道は、相模国の三浦半島から船で安房に渡り、上総・下総を経て常陸に至るのが道筋であった。しかしこの時期にはすでに、相模から武蔵を経、現在の荒川・江戸川河口部を横断して下総国に達する道が開けていたのである。この神護景雲二年の措置は、そのような実情を踏まえ、相模から武蔵・下総・上総へと続くこの新しい路線の輸送力を増強しようとしたものと考えられる。
武蔵国の所属を東山道から東海道に変更することを求めた先述の宝亀二年(七七一)の太政官奏によると、当時の東海道は、相模国の夷参駅(座間市付近)から下総国まで、その間四駅であったとされている。この四駅はふつう、十世紀に編まれた『延喜式』(資一―297)と『倭名類聚抄』とによって、都筑(つづき)郡の店屋(たなや)駅、橘樹(たちばな)郡の小高駅、荏原(えばら)郡の大井駅、豊島郡の豊島駅であろうとされており、店屋駅は町田市鶴間町谷付近、小高駅は川崎市高津区新作字小高、大井駅は品川区大井にそれぞれ比定され、武蔵国府には相模国の浜田駅(厚木市付近)か武蔵国の店屋駅から北上する支路が連絡していたと推定されている。
しかし、宝亀二年は駅路の輸送力の強化を図った神護景雲二年の措置からまだ三年しか経っておらず、両者の駅路は同一路線であると思われる。また神護景雲二年の奏状には「山海の両路(東海・東山二道)」を承けるとあり、この路線は武蔵国府付近で東山道武蔵路と連絡していた可能性が強い。さらに駅路は国府の近接地を通過するのが一般であることなどを考えると、宝亀二年当時の武蔵国の四駅は、『延喜式』に記す相模国の浜田駅から武蔵国に入り、多摩川下流を渡って東京湾沿いを北上し、豊島駅に達するという経路とは違って、相模国の夷参駅から北上し、多摩市域を縦断して武蔵国府に至り、さらに乗潴・豊島二駅を経て下総国府に達する路線ととるのが穏当であろう(中村太一「武蔵国豊島郡における古代駅路の歴史地理学的考察」『北区史研究』一 一九九二)。乗潴・豊島二駅のほか二駅の一つは国府の近傍に、もう一つは武蔵と相模とを結ぶ線の中間の、武蔵国内に置かれたのではあるまいか。国府を経由せずに東京湾沿いを北上する『延喜式』の路線は、九世紀以後に変更されたものを示しているのであろう。
いずれにしても、多摩市域を通過する官道は、武蔵国の東海道への編入によって正式に東海道の駅路となったわけで、この後平安時代を通じて武蔵国と相模国とを結ぶ役割をにない、中世の鎌倉街道へその役割を伝えていくことになる。