律令制のもとでの郡司は、地方支配を実効あるものとするためのかなめとなる官職であった。律令制的な官人秩序の中では、郡司は中央から派遣される国司の下位に位置し、地域の実力者の中から任命される現地官人として地方行政の実務を担った。したがって、郡司の律令官人としての地位は中央の貴族たちと比べて決して高くない。しかし、郡司は現地採用の官であり、任期の定めがなく本人の在世中は一生勤めることのできる終身の官であるなど、律令官人の中では特殊な性格を持っていた。郡司は、一方ではかつての国造(くにのみやつこ)などの在地の首長が受け継いできた伝統的な支配権を具現する存在であり、地方社会において大きな権威と実質的な支配力を有していた。税の収取、労役の徴発など、律令制的地方行政のあらゆる分野が、郡司のこうした実質的支配権を前提に機能していた。国司と郡司の関係にしても、両者は地方官僚としていわば異なる機能を分担していたのであり、地方支配の実務を唯一遂行しうる郡司に対し、その活動を指揮・監督するために律令国家の権力を代行する形で派遣されるのが国司であった。
郡の前身は評であり、七世紀中ごろから全国に設定された。評の設置(立評)は、国造やその他の現地有力者二名が、のちの国司に相当する中央派遺官の国宰(くにのみこともち)などに申請して行われるのが例であったようである。この申請者二名が、最初の評の官人(評造や評督・助督)に就任した。評は大宝令の施行により郡にほぼそのまま移行した。郡司の長官・次官である大領・少領は、評造・評督・助督を受け継ぐ官職であり、総称して郡領と呼ばれる。郡領には、通常は立評時の評の官人の後裔が任命され、場合によって、在地の有力者で中央で功績のあった者が任じられたらしい。こうしたかつて評の官人や郡司に就任した者の後裔は譜第(ふだい)と呼ばれ、譜第の資格を持つかどうかは、郡司を選考する場合の条件として重視された。
奈良時代の多磨郡の郡司としては、『日本霊異記』の説話に二人の人物が登場する。一人は、多磨郡大領の大伴赤麻呂で、天平勝宝元年(七四九)に死亡したが、生前自らが建立した寺院の資財を借用し返却しなかったために、黒斑の牛に生まれ変わったという(中ノ九)。ここで赤麻呂が建立した寺院は一族の氏寺であったと推測でき、郡司層はそれだけの資産を有していた。氏寺に氏族の財産を施入して寺の資財とすることは、律令制下の諸規定によってさまざまな制約を受ける私的財産の保全・拡大をはかる方策でもあり、また氏族の資産の分割を避ける意味もあった。赤麻呂は、一族を代表する者として、形式上は氏寺のものとなった氏族の資産の運用を主宰していたことが想像される。
もう一人は大真山継である。大真という姓には不審があり、「丈部(はせつかべ)」「丈(部)直(あたい)」あるいは「大部(伴)(おおとも)」の誤りではないかと思われる。丈部姓とすれば、武蔵国造と同姓ということになる。山継は多磨郡小河(小川)郷(あきる野市)の出身で、派遣されて蝦夷征討の軍事行動に従事し、また恵美押勝(えみのおしかつ)の乱では敗北した押勝側の与党として斬刑に処せられるところを危うく命だけは救われて信濃国に流罪となったが、のち罪を許されて帰国し、多磨郡少領に任じたという。こうした経歴から想像すると、山継は代々郡司を輩出してきたいわゆる譜第氏族の出であり、単なる一兵卒としてではなく、軍団の大少毅など兵士を指揮する立場で対蝦夷戦争に出征し、またそうした兵力の保有を背景に中央政界とも関わりを持つような人物であったと思われる。いわば当時の郡司の一典型とも言い得る人物像が推定される。出身地である小河郷には小川牧が所在し、多磨郡の有力な勢力の一つがこの地を根拠としていたものであろう。