正倉神火事件

440 ~ 441
神護景雲三年(七六九)九月、武蔵国入間郡で、郡の財政を支える正税(しょうぜい)などを収めた正倉四棟が火災となり、穀・糒(ほしいい)一万斛(こく)余りが焼失、百姓二名が死亡、一〇名が重傷という事件が発生した。事件には単純な事故や失火とは言いきれないものがあり、当時の郡司の動向をうかがうことができる。
 火災の原因について武蔵国は、神の祟りによる火災、いわゆる神火とする報告を提出した(資一―92)。報告によれば、火災後の卜占(ぼくせん)で、郡内の出雲伊波比(いずもいわい)神が雷神を率いて火災を発したというお告げがあり、事実を確認したところ、天平勝宝七歳(七五五)に出雲伊波比社は多磨郡小野社、加美郡今城青八尺稲実(いまきあおやさかいなみ)社、横見郡高負比古乃(たけふひこの)社とともに時宜に応じて国の幣帛を受ける神社とされたが、年とともに幣帛が欠かされていたことがわかった。報告では、火災は落雷によるものと解されたらしく、これを神の祟りとするのは当時としては自然の成り行きといえる。ところが、この時期にはこうした神火による正倉の火災が各地で頻発していた(表4―9)。神火事件の背後には、当時の地方政治をめぐる複雑な事情が隠されていた。
表4-9 神火の実例
年月 国郡 出典
神護景雲3年(769)8月 下総国猨嶋郡 続日本紀
神護景雲3年(769)9月 武蔵国入間郡 資1一92・93
宝亀4年(773)2月 下野国 続日本紀
宝亀4年(773)6月 上野国緑野郡 続日本紀
宝亀5年(774)7月 陸奥国行方郡 続日本紀
弘仁7年(816)8月 上総国夷灊郡 類聚国史
弘仁8年(817)10月 常陸国新治郡 類聚国史
弘仁9年(818)正月 出雲国 類聚国史
承和2年(835)3月 出雲国 類聚国史
承和2年(835)3月 甲斐国 類聚国史
貞観13年(871)4月 因幡国 三代実録
承平3(933)以前 丹波国 政事要略
貞元元年(976)正月 陸奥国 日本紀略

 当初朝廷は、神火は神への崇敬が足りないために発生したとして、天平宝字七年(七六三)に、神火が起きた国の国司を交替させるという対策をとった。しかし、その後も神火が頻発する状況を見て、神火の背後に人為的な工作が行われている疑いを持つようになった。この結果、現任の郡司を解任させるために正倉に放火し、これを神火と称することが行われていることがまずわかってきた。次期郡司への就任を望む者による放火である。これに続いて、逆に現任の郡司らによる放火の場合もあることがわかってきた。郡司や国司、正税の徴収に当たる郡の下級職員である税長などが、正倉に収納されるべき正税をごまかし、ことを隠蔽するために正倉に放火していたのである。入間郡の神火事件は、前者の郡司解任をもくろんだ放火であった疑いが強い。