神火事件の真相

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この時期、入間郡の有力者として入間宿袮広成(いるまのすくねひろなり)と大伴部直赤男(おおともべのあたいあかお)という二人の人物が史料に登場する。入間宿袮広成はもとは物部直(もののべのあたい)広成といい、入間郡から舎人(とねり)として京へ出仕し、恵美押勝の乱では称徳天皇側の授刀衛に属し、一隊を率いて越前国愛発(あらち)関で押勝軍を防ぐのに功績があった。その後は政権と密接な関係を保ち、神火事件の起きる前年の神護景雲二年には、出身の郡名により入間宿袮の姓を与えられた。称徳・道鏡政権が崩壊したのちも官人として活動を続け、陸奥介に任じられたことが知られている。直の姓を持ち、舎人となっていることなどから、広成は入間郡の伝統的な有力氏族の出身であり、郡領一族の系譜に属する者と思われる。神火事件の時期に広成は最も有力な郡領候補者となりえたであろうし、そうでなくとも、広成の中央での活躍や政権との密接な関係は、地元にいる広成の近親者にとって有力な政治的後押しとなったことは疑いない。
 もう一人の大伴部直赤男は、神火事件と同年の神護景雲三年に、称徳・道鏡政権が国家的事業として造営を進めていた西大寺に、布一五〇〇段、稲七万四〇〇〇束、墾田四〇町、林六〇町という莫大な資産を献納した人物である。直の姓を持つことから、やはり郡領一族の出身と思われる。ただ、このような献納をした場合、褒賞として叙位されるのが通例であるが、赤男への褒賞は直ちには行われなかった。赤男による献納は、その受け入れを認めるかどうか一時宙に浮いた状態となっていたらしく、献納の受け入れが正式に認められたのは、八年も後の宝亀八年(七七七)のことであった。赤男への叙位もこの時になって発令されたが、赤男はすでに死亡しており、叙位は追贈となった。これほどの時間がかかったのは、途中称徳・道鏡政権の崩壊という出来事があったにしても異例の措置といわざるを得ず、献納と同年に起きた神火事件と関係して複雑な事情があったようである。

図4―62 西大寺資財流記帳

 そもそも神火事件の処理にもかなりの時間がかかった。事件から三年以上を経た宝亀三年(七七二)十二月になって、出雲伊波比神への奉幣を怠ることのないよう命令が出され、翌年二月に事件当時の郡司の解任が命令された(資一―92・93)。武蔵国が事件の原因を神の祟りのためとする報告を提出したのは事件発生の八日後であるから、処理が停滞したのは報告が中央に届いてからのことである。
 神火事件と大伴部直赤男との関係については、これまでにいくつかの考えが出されている。一つは、入間郡の郡領への就任をもくろむ赤男が、一方で西大寺への献納により称徳・道鏡政権への接近をはかり、一方で神火事件を発生させて現任郡領の失脚をはかったとする考えである。しかし、赤男の献納が直ちに受け入れられなかったことを見ると、赤男が政権中枢と十分な連携を持って行動しているかどうか疑問がある。もうひとつの考えは、神火は郡領であった赤男が正税収取の不正を隠蔽するためにおこした事件であり、神火発生時の郡司家に対する譜第資格の取り消し処分を免れるために、政権と密接な関係にある西大寺に献納を行ったとする考えである。しかし、献納と神火事件発生の前後関係は不明であるし、神火を正税に関する不正を隠蔽するための放火とする認識が法令上に見え始めるのは、入間郡の神火事件より一〇年ほども後のことであるといった問題がある。
 大伴部直赤男の西大寺への献納が、当時の称徳・道鏡政権に接近しようとする行動であったことは明らかである。ただ、この当時、入間郡の中で政権と最も密接な関係を持っていたのは入間宿袮広成およびその関係者の勢力であろう。また、神火の報告を行った武蔵国司らの多くも称徳・道鏡と政治的に近い官人で占められていたと思われ、入間宿袮の勢力は国司とも連絡を持っていたと見られる。あくまで一つの推測に過ぎないが、当時の入間郡では入間宿袮の勢力によって、現任郡領である大伴部直赤男の追い落としが画策されており、国司の中にも同調者がいたと思われる。神火事件は赤男を失脚させるための陰謀として引き起こされたのではないだろうか。赤男の西大寺への献納は、こうした動きに対抗して行われたものと考えることができる。この結果、直ちに赤男の解任処分を行うこともできず、また献納の扱いも宙に浮いた状態が生じたのであろう。その後、称徳天皇の死にともなう政権自体の交代もあり、事件の処理を引き継いだ光仁天皇のもとでの新政権は、結局神火を神の祟りとして処理する方針を取り、天平宝字七年の法令に基づいて郡司の解任を命令するが、譜第資格の取り消しは行わなかった。一方、献納については、赤男の生前は正式に受け入れることをせず、死後になって受け入れを決め、追贈という形で褒賞を与えたのである。これは、背後に郡領の地位をめぐる複雑な事情があることを認識していたための措置と思われる。朝廷はこの後まもなく従来の神火に際する取り扱いを改め、現任郡領の失脚をはかって神火事件が起こされた場合には、犯人一族の譜第資格取り消しという処理を命じるが、これは入間郡の神火事件の扱いを検討する中で到達した認識であるかもしれない。
表4-11 入間郡をめぐる情勢
年月 主な出来事 出典
天平勝宝7(755).11 武蔵国入間郡出雲伊波比社等4社が、国の幣帛に預かる神社となる。 資1―92
天平宝字8(764).9 恵美押勝の乱で、授刀物部広成が愛発関で押勝軍を防いで活躍する。 続日本紀
神護景雲2(768).7 入間郡の人物部直広成ら6人が、入間宿祢の姓を賜わる。 資1―85
神護景雲3(769).9 正倉4宇、穀・糒1万余斛が神火により焼失し、死傷者が出る。 資1―92
武蔵国が出雲伊波比神の祟りとする報告を提出する。 資1―93
神護景雲3(769) 入間郡人大伴部直赤男が、西大寺に布・稲・墾田・林等を献納する。 資1―99
宝亀3(772).12 神火発生に対応して、出雲伊波比神に幣帛をささげるよう命令が出される。 資1―92
宝亀4(773).2 神火発生に関する処分として、入間郡司の解任を命令。但し、譜第資格の取り消しは行わないこととされる。 資1―93
宝亀8(777).6 故大伴部直赤男による西大寺への墾田・林地の献納が正式に認められ、その功績により、赤男に外従五位下が追贈される。 資1―99
宝亀9(778) 西大寺に献納された墾田・林地について、武蔵国が墾田文図と林地帳を作成する。 資1―102
延暦元(782) 入間宿祢広成が陸奥介に任じられる。 続日本紀