入間郡の神火事件の背後には、以上のような複雑な事情が想定される。この推定には別の考え方もあると思われるが、奈良時代中期以降の郡司たちの動向の特徴についていくつかの点を知ることができる。
その一つは、中央の諸勢力との結びつきが、郡司の地位を維持する上で大きな意味を持ってきていることである。中央政界において政権の交代がしばしば生じたこの時期にはとくにこのことが重要な意味を持ち、また中央の諸勢力の側も、私的な軍事力や財力の源泉として、地方勢力との連携に意をはらったものと思われる。広成や赤男の他にも、先に述べた大真山継は恵美押勝の乱で押勝側と見なされて処罰された。また神護景雲元年(七六七)には、武蔵国足立郡の丈部直不破麻呂(はせつかべのあたいふわまろ)らが武蔵宿袮の姓を与えられ、不破麻呂は武蔵国造に任じられた(資一―79・80)。入間広成同様、武蔵不破麻呂も当時の政権と密接な関係を持っていたのであろう。
郡司は、その子弟を兵衛(ひょうえ)や采女(うねめ)として朝廷に出仕させることとなっており、これが中央とつながりを持つ機会ともなった。広成はその例であろう。また、延暦六年(七八七)に死亡した武蔵家刀自(いえとじ)は、采女として出仕し、朝廷の後宮に勤めて昇進した女性である(資一―112)。一族の中に中央で活躍するこうした人物がいることも、地方政治社会で優越した地位を築く上で大きな力となった。大伴部赤男が行ったような献物も、中央との関係を作る上でしばしば行われた。また、天が政道の宜しきをことほんで出現させるという瑞祥を献上したり、その出現を報告することも、為政者の歓心を買う手段ともなった。神護景雲二年には武蔵国から白雉が献上され、国郡司らが褒賞を得ている(資一―84)。
郡司らの動向としてもうひとつ注目されるのは、彼らによる私富の形成である。大伴赤麻呂が氏寺を建立したり、大伴部赤男が西大寺に資材を献納したことなどから明らかなように、彼らは布・稲などの動産と、墾田・林といった不動産とからなる膨大な資産を所有していた。天平宝字三年(七五九)に武蔵国で耕地の調査を行ったところ、それまで公式に把握されていなかった隠没田九〇〇町が発見された(資一―67)。こうした耕地も郡司らが主導して活発な開墾が行われていたことを示しており、彼らへの富の集中を物語る。しかし、先に郡司の任用法の変遷と関連して述べたとおり、郡司らの伝統的首長としての権威はこの時期衰退に向かいつつあった。このことと、こうした郡司らへの私富の集中は一見矛盾するように思われるが、状況は次のようであったと思われる。かつて郡司らが体現していた地域の伝統的支配権とは、強固な氏族への帰属にうかがわれるような旧来の共同体的関係の維持と不可分のものであった。こうした関係の中では、首長は共同体を代表して共同体の資産を掌握するが、その資産は共同体とともに維持される性格のものであった。ところが、共同体的諸関係が崩れはじめ、氏族の結合が緩んで首長家の分立が始まると、本来の共同体的資産が首長層の私富として分割されてしまう事態が生じる。この結果、この時期の郡司らが、膨大な資産を私富として所有することになったのであろう。それは、いわば首長としての伝統的権威の喪失と表裏の関係にあるものだったのである。郡司らは、この時期膨大な私富を手にするが、その資産を再生産する手段を持たず、その後まもなく、政治的にも経済的にも、地域における抜きんでた立場から引きずり下ろされることとなるのである。