防人と防人歌

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八世紀の東国の人々にとって、調庸などの物質的な負担以上に大きな負担であったのは、兵役であった。律令では、兵士は二一歳以上・六〇歳以下の男子から徴発され、軍団に所属して訓練をうけ、非常時に備えるほか、その一部は衛士(えじ)となって都の警衛にあたり、一部はまた防人(さきもり)となって九州の辺防にあたる定めであった。
 防人の制度は、天智(てんじ)二年(六六三)の白村江の戦いで日本が唐に敗れてのち、西日本の防衛が強化された時期に整備されたと思われ、養老軍防令では三年間の勤務が規定されている。そして現実に八世紀前半の時期に防人となったのは、東国の兵士であった。五、六世紀以来、舎人などとして大和政権に武力で奉仕してきたという東国の伝統から、この重要な任務を担うことになったのであろう。
 天平九年(七三七)、筑紫の防人を停めて本郷に帰し、筑紫の人に壱伎(いき)・対馬を守らせることが定められた(『続日本紀』)。このとき停止されたのは東国の防人約二〇〇〇人で、そのことは天平十年度の駿河・周防・筑後諸国の正税帳によって知ることができる(正倉院文書)。『万葉集』によればその後も東国の防人の派遣は行われたが、天平宝字元年(七五七)にいたり、諸国の経済的負担や防人の生活の窮迫などを理由に東国の防人は廃止され、西海道七国の兵士がかわりに辺防の任につくことになった。それはこの時期から東北地方の軍事力強化が緊急の課題となり、そちらに東国の武力を向ける必要が生じたからであった。
 ところで『万葉集』巻二〇には、天平勝宝七歳(七五五)二月、それまでの防人と交替して筑紫に赴く東国の防人の歌八四首が収められている。これは、このとき兵部少輔として難波で防人の検校に当たった大伴家持が、諸国の防人部領使の記録し献上した防人の歌を集録したものである。そこには、父母妻子との別離を悲しむ切々たる歌や、決然たる出征の歌など、同じ東国人の歌ながら巻一四の東歌の世界とはまったく異なった歌境が展開されている。
 武蔵国の防人歌は、同年二月二十日、武蔵国の防人部領使安曇三国(あずみのみくに)によって二〇首が家持に進上された。『万葉集』にはそのうちの一二首、那珂・秩父・荏原・豊島・橘樹・都筑・埼玉の諸郡の防人とその妻の歌が載せられている。
 赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多磨の横山 徒歩(かち)ゆか遣(や)らむ
 (山や野に放した赤い馬を捕えることができずに、多磨の横山を、夫を歩かせて行かせることであろうか。)
はそのうちの一首、豊島郡の上丁椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)の妻、宇遅部黒女(うじべのくろめ)の歌である(巻二〇。四四一七)。国府に集合した武蔵国の防人は、部領使に率いられて多摩川を渡り、横山を越え、足柄の坂を越えて筑紫に向かった。横山を越えれば、もう妻の住む豊島の地を見ることはできなかったのである。
 また『日本霊異記』には、武蔵国多磨郡鴨里の人吉志大麻呂(きしのおおまろ)が聖武天皇のとき防人となり、母の日下部真刀自(くさかべのまとじ)を伴って九州に赴いたが、故郷に残した妻恋しさに、母を殺し、その喪に服するという名目で郷里に帰ろうと考え、母を斬ろうとしたところ、地が裂けて死んでしまったという説話がある(中ノ三)。これも妻と離れて九州に赴かなければならなかった、防人の悲劇を象徴するものといえよう。