柵戸の移配と鎮兵

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律令国家にとって、西海の辺防とともに大きな課題であったのは、東北地方の蝦夷(えみし)の平定であった。律令国家による蝦夷の征討は和銅二年(七〇九)に始まるが、この征夷事業においても、東国はその基地として、軍事的・経済的に大きな役割を担うことになった。養老四年(七二〇)、東北地方の陸奥・石城(いわき)・石背(いわせ)三国の調庸・租が減免されたおりには、武蔵を含む六か国の征卒・厮・馬従などの負担が免除されており(資一―28)、その負担の大きかったことがうかがわれる。
 東北地方の支配の安定のため、朝廷は中部地方や関東地方の人民を各地の城柵に柵戸(さくこ)として移住させ、農業の経営にあたらせた。霊亀元年(七一五)には相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野六国の富民一〇〇〇戸が陸奥に配されており(資一―24)、その後も九世紀の初頭に至るまで、多くの人民が出羽・雄勝・桃生(ものう)・伊治(これはり)・胆沢(いさわ)などの諸城柵に配されている(表4―12)。柵戸を東北に送り出すことは農業生産や社会生活に深刻な影響を及ぼすものであったから、八世紀後半には、公民を一〇〇戸単位で移配することはなくなり、柵戸の移配は浮浪人を中心とするものに変化した。浮浪人は戸籍に登録されている地を離れて他所に居住している者であり、公民に比べて移動することへの障害が少なく、また農業経営に卓越している者が多かったことによるのであろう。
表4-12 柵戸の移配
対象の城柵 移配の内容
大化4年(648) 磐舟柵 越・信濃の民(日本書紀)
和銅7年(714) 出羽柵 尾張・上野・信濃・越後の民200戸(続日本紀)
霊亀元年(715) 陸奥国 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野6国の富民1000戸(続日本紀)
同 2年(716) 出羽国 信濃・上野・越前・越後4国の百姓各100戸(続日本紀)
養老元年(717) 出羽柵 信濃・上野・越前・越後4国の百姓各100戸(続日本紀。前項の同事重出か)
同 3年(719) 出羽柵 東海・東山・北陸3道の民200戸(続日本紀)
同 6年(722) 陸奥鎮所 諸国1000人(続日本紀)
天平宝字3年(759) 雄勝柵 坂東8国・越前・能登・(越中)・越後4国の浮浪人2000人(続日本紀)
同    年 桃生柵 浮浪1000人(続日本紀神護景雲3年正月条)
同   4年(760) 雄勝柵 没官の奴233人・婢277人(続日本紀)
神護景雲3年(769) 伊治村 浮宕の百姓2500余人(続日本紀)
延暦15年(796) 伊治城 相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後国の民9000人(日本後紀)
同21年(802) 胆沢城 駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野国の浪人4000人(日本紀略)

 東北地方への支配の進行に対する蝦夷の抵抗は、朝廷の予想していた以上に激しかった。養老四年(七二〇)、神亀元年(七二四)と陸奥国ではあいついで蝦夷の反乱が起こり、国司が殺害された。このため朝廷は、陸奥国に軍事的支配の拠点として「鎮所」を置き、軍事力を常駐させる政策をとった。こうして設けられたのが多賀城(宮城県多賀城市)であり、また陸奥・出羽二国の鎮兵であった。
 鎮兵は現地の軍団兵士とは異なり、東国から動員され、派遣されてくる兵士である。鎮兵には一般の兵士とは違って公粮が支給され、任地に妻子を伴うことも認められた。しかしその生活はきびしく、帰途の食料がないためそのまま奥地に留まる者も多かったといわれる(『類聚三代格』弘仁六年八月二十三日太政官符)。
 東国の人々には、防人として九州に赴く軍事的な負担がすでにあり、そのうえに東北の鎮兵をも勤めることは、その負担の限度を超えるものであった。七三〇年代以降、防人に東国の人を充てる政策が変更されていくのは、東北の軍事力強化の政策と相関連するものであったと見ることができる。