東北の戦いと武蔵の人々

452 ~ 457
八世紀後半の東北地方では、朝廷による支配領域のいっそうの拡大が進められた。とくに恵美押勝(えみのおしかつ)の時代には、陸奥国に桃生(ものう)城、出羽国に雄勝城が築かれ、その後神護景雲元年(七六七)には陸奥国に伊治(これはり)城が造られて、北上川中流域の胆沢地方への進出が図られた。しかしこのころから族長に率いられた蝦夷の抵抗は激しさを増し、宝亀五年(七七四)には桃生城が蝦夷の進攻をうけ、さらに同十一年三月には伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が反乱をおこして多賀城を奪う事件がおこり、朝廷による東北地方の支配は大きな転機を迎えることになった。
 宝亀五年に桃生城が蝦夷の進攻をうけたとき、朝廷は武蔵を含む坂東八国に対し、陸奥国に急変があればただちに援兵を差発するように命じ、翌年には相模・武蔵・上野・下野四国の兵士が鎮兵として出羽国に派遣された(資一―97)。さらに十一年に伊治呰麻呂の反乱がおこると、坂東諸国には大量の糒(ほしいい)(軍粮)の準備が命じられ、また兵士を徴発して九月五日までに多賀城に集結すべきことが命じられた。

図4―63 古代の東北地方

 朝廷と蝦夷との戦いはこの後ほぼ二〇年にもわたって続き、その間坂東の諸国には、軍士の徴発、軍粮の準備、革甲・征箭(そや)の製造などが頻繁に命じられた(表4―13参照)。多賀城跡からは、時期は下るが、大同四年(八〇九)に武蔵国幡羅(はら)郡から送られた米に関する木簡が出土している(資一―133)。このような負担の増大による農民の疲弊は著しく、朝廷は、延暦二年(七八三)には坂東諸国の倉を開いて人民に米穀を支給し、また同九年にはこの年の田租を免除した。
表4-13 征夷に関する諸国の負担(宝亀5年~延暦24年)
年月 負担の内容
宝亀5年(774)8月 坂東8国に、陸奥国に危急あれば国ごとに援兵2000以下500以上を差発すべきことを命じる(続日本紀)。
宝亀6年(775)5月 京庫の綿10000屯、甲斐・相模両国の綿5000屯をもって、襖を陸奥国に造らせる(同)。
同      10月 相模・武蔵・上野・下野4国に、兵士996人を鎮兵として出羽国に発遺させることを命じる(同)。
宝亀7年(776)5月 下総・下野・常陸などの国に、騎兵を発して志波村の賊を討伐することを命じる(同)。
同      7月 安房・上総・下総・常陸4国に、船50隻を造り陸奥国に配置すべきことを命じる(同)。
宝亀8年(777)5月 相模・武蔵・下総・下野・越後の諸国に、甲200領を出羽国の鎮戍に送るべきことを命じる(同)。
宝亀11年(780)5月 京庫・諸国に、甲600領を鎮狄将軍のもとに送ることを命じる(同)。
同       6月 坂東諸国および能登・越中・越後の諸国に、糒30000斛を備えることを命じる(同)。
同       7月 尾張・参河など5国に、甲1000領を陸奥軍所に運ぶことを命じる(同)。
同       7月 東海・東山両道諸国に、襖4000領を造り陸奥国に送ることを命じる(同)。
同       7月 坂東諸国の兵士を徴発し、9月5日までに多賀城に集結すべきことを命じる(同)。
同       7月 下総・常陸両国に、糒16000斛を8月20日までに陸奥軍所に送ることを命じる(同)。
天応元年(781)2月 相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸の諸国に、穀100000斛を陸奥軍所に漕送すべきことを命じる(同)。
延暦7年(788)3月 陸奥国に軍粮35000余斛を多賀城に運びこむことを命じる(同)。
同      3月 東海・東山・北陸道諸国に、糒23000余斛と塩とを陸奥国に輸送すべきことを命じる(同)。
同      3月 東海・東山・坂東諸国の歩兵・騎兵52800余人を徴発し、明年3月までに多賀城に集結すべきことを命じる(同)
延暦9年(790)閏3月 東海道駿河以東、東山道信濃以東の諸国に、3か年内に革甲2000領を造ることを命じる(同)
同      閏3月 東海道相模以東、東山道上野以東の諸国に、軍粮の糒140000斛を備えることを命じる(同)。
延暦10年(791)3月 京畿七道諸国の国司・郡司に、甲を造ることを命じる(同)
同       6月 諸国に鉄甲3000領を新様によって修理すべきことを命じる(同)。
同       10月 東海・東山両道諸国に、征箭34500余具を造ることを命じる(同)。
同       11月 坂東諸国に軍粮の糒120000余斛を備えることを命じる(同)。
延暦21年(802)正月 鎮兵の粮として、越後国の米10600斛、佐渡国の塩120斛を毎年出羽国雄勝城に送ることを命じる(日本紀略)。
延暦22年(803)2月 越後国に、米30斛・塩30斛を造志波城所に送ることを命じる(同)。
延暦23年(804)正月 武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥の諸国に、糒・米を陸奥国中山柵に運ぶことを命じる(日本後紀)。

 すでに宝亀十一年(七八〇)、朝廷は諸国の兵士が弱体化しているため、三関・辺要を除き、富裕で武芸に秀でた者を選んで兵士とすることとし、羸弱(るいじゃく)の者は帰農させ、全体として兵士の数を減じる政策をとった。その背景には、当時農村で農民の階層分化が進行し、富裕な農民が成長する一方で、貧窮な農民が郡司や軍団の軍毅などの在地有力者に私的に使役される傾向が著しくなっていたことがあった。
 坂東諸国においても、延暦二年(七八三)には、有位者の子や郡司の子弟などで軍士に堪える者を選んで用兵の道を学ばせる政策がとられている。やがて延暦十一年には、辺要を除いて諸国の兵士は廃止され、かわりに郡司の子弟を健児(こんでい)として兵庫・鈴蔵・国府などを守衛させることとなった(資一―117)。『類聚三代格』の官符には武蔵国の健児は一〇五人とあるが、『延喜式』兵部省に一五〇人とあるのが正しいであろう(資一―294)。土田直鎮『古代の武蔵を読む』七九頁)。
 諸国の兵士を停廃したのは、人民の労役を、当時桓武天皇が推進していた都城の造営と、東北地方の蝦夷の征討とに集中的に投入するためであった。したがって東国においては、農民が兵士として日常的に軍団に勤務することはなくなったものの、鎮兵として東北地方に赴くことは依然として継続された。延暦十三年には、坂上田村麻呂を副将軍とする征夷の軍に、一〇万という大軍が動員されている(『日本後紀』弘仁二年五月壬子条)。
 坂上田村麻呂は蝦夷の征討に成功し、延暦二十一年には北上川中流域に胆沢城の建設が開始され、蝦夷の軍事的指導者であった阿弖流為(あてるい)も、この年、田村麻呂に投降した。同年、新設の胆沢城には武蔵を含む一〇国の浮浪人四〇〇〇人が移配され、支配の安定がはかられた(資一―125)。
 このように柵戸の移配が行われる一方で、東北地方からは多数の蝦夷が、夷俘(いふ)とか俘囚(ふしゅう)とか呼ばれ、強制的に関東や西日本の各地に移された。延暦十七年(七九八)、相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲の諸国に対し、帰降した夷俘に撫恤(ぶじゅつ)を加えることを命じているのは、それを示している(資一―124)。これは蝦夷を農業に使役したり、武力として利用するためでもあったが、彼らの村落・同族などの結合を破壊し、東北における反乱の再発を防止しようとする意図をももつものであった。
 『延喜式』主税寮の諸国出挙稲(すいことう)の記載には、伊勢以下三五国について俘囚料(または夷俘料)の項目があり(表4-14)、武蔵国についても三万斛の俘囚料の記載がある(資一-286)。これは正税稲(しょうぜいとう)を出挙し、その利稲を俘囚の費用にあてるものであった。
表4-14 『延喜式』主税式に見える諸国の夷俘籵・俘囚料
国名 名称 数量 国名 名称 数量 国名 名称 数量
山城 ナシ 信濃 俘囚料 3000 備前 俘囚料 4340
大和 ナシ 上野 俘囚料 10000 備中 俘囚料 3000
河内 ナシ 下野 俘囚料 100000 備後 ナシ
和泉 ナシ 陸奥 ナシ 安芸 ナシ
摂津 ナシ 出羽 ナシ 周防 ナシ
長門 ナシ
伊賀 ナシ 若狭 ナシ
伊勢 俘囚料 1000 越前 俘囚料 10000 紀伊 ナシ
志摩 ナシ 加賀 俘囚料 5000 淡路 ナシ
尾張 ナシ 能登 ナシ 阿波 ナシ
参河 ナシ 越中 俘囚料 13433 讃岐 俘囚料 10000
遠江 夷俘料 26800 越後 俘囚料 9000 伊予 俘囚料 20000
駿河 俘囚料 200 佐渡 俘囚料 2000 土佐 俘囚料 32688
伊豆 ナシ
甲斐 俘囚料 50000 丹波 ナシ 筑前 俘囚料 57370
相模 俘囚料 28600 丹後 ナシ 筑後 俘囚料 44082
武蔵 俘囚料 30000 但馬 ナシ 肥前 俘囚料 13090
安房 ナシ 因幡 俘囚料 6000 肥後 俘囚料 173435
上総 俘囚料 25000 伯耆 俘囚料 13000 豊前 ナシ
下総 俘囚料 20000 出雲 俘囚料 13000 豊後 俘囚料 39370
常陸 俘囚料 100000 石見 ナシ 日向 俘囚料 1101
隠岐 ナシ 大隅 ナシ
近江 俘囚料 105000 薩摩 ナシ
美濃 俘囚料 41000 播磨 俘囚料 75000 壱伎 ナシ
飛騨 ナシ 美作 俘囚料 10000 対馬 ナシ

 延暦十九年(八〇〇)、甲斐の国司は、夷俘が旧来の習俗を改めず、乱暴をはたらくといってその処罰を求めている(『類聚国史』一九〇俘囚、延暦十九年五月己未条)。蝦夷は、隔絶され蔑視された環境のなかで、しばしば逃亡・略奪などの行為に出たが、それは反乱と目され、鎮圧をうけた。弘仁五年(八一四)の出雲国での事件に続き、関東地方では、嘉祥元年(八四八)に上総国で俘囚が反逆して相模・上総・下総など五国に討伐が命じられ、また貞観十七年(八七五)には下総国の俘囚が反乱し、武蔵など四国に各三〇〇人の援兵を発することが命じられた(資一―226)。坂東の諸国は、その後も元慶二年(八七八)の出羽国の俘囚の乱にあたって鎮圧の武力とされるなど(資一―230・231)、東北地方における軍事行動を支える基地としての役割を担った。このような役割は、以後の東国の歴史の展開に大きな影響を与えるものであった。
 武蔵国入間郡の人、入間(物部)広成は、中央の武官として功を立てるとともに、蝦夷の征討にも活躍し、延暦七年(七八八)には征東副使となった。また多磨郡小河郷の人大真(丈直か)山継は、蝦夷征討に軍士として遣わされ、天平宝字八年(七六四)の恵美押勝の乱にも関わったという(『日本霊異記』下ノ七)。東国の人々は、このように豪族も農民も多く武事に関わり、武力的性格を色濃く有していた。十世紀の東国で、平将門の乱のような激しい武力闘争が起こった背景の一つには、律令制下の東国が、蝦夷征討の兵站基地として、馬の飼育、武器の蓄積、人民の訓練など、多年にわたってその武力的基盤の充実が図られていたという事情があったものと考えられる。