旧石器時代から人々が住み初め、縄文時代には大小の集落が多数形成され、独自の縄文文化を築いた多摩丘陵も、弥生時代にはほとんど人跡が途絶える。この多摩丘陵に再び人々が姿を現わすのは古墳時代になってからで、集落が各地に出現し、古墳時代後期には都内最大規模を誇る稲荷塚古墳が築かれるまでに至っている。
古墳時代に再び始まった多摩丘陵での集落の形成は奈良時代になるとさらに加速され、古墳時代後期には二か所であった集落跡は一〇か所に増える。集落の営まれる地域も古墳時代のように和田地区に限定されず、和田・百草遺跡群、向ノ岡遺跡、東寺方遺跡、一の宮遺跡、多摩ニュータウンNo.七三遺跡(落合)、同No.二七一・四五二遺跡(落合)、同No.四四八遺跡(貝取)、同No.四五一遺跡(落合)、同No.四五二遺跡(落合)、同No.五〇九・八六〇遺跡(連光寺)、同No.七七四・七七五遺跡(乞田)、同No.八六〇遺跡(連光寺)など、市内各地に拡散している。集落以外の遺物散布地も広域にわたり、古墳時代に比べると人口密度は格段に濃密になる。
これらの集落遺跡では竪穴住居一軒から五軒までの小規模なものがほとんどであるが、多摩市内最大の奈良時代集落跡である東寺方遺跡では、古墳時代後期に竪穴住居一軒しかなかったものが、奈良時代前半には竪穴住居一三軒に増え、奈良時代後半には竪穴住居一軒となり、掘立柱建物も一棟検出されている。これに次ぐのは向ケ岡遺跡で、奈良時代の竪穴住居六軒、平安時代の竪穴住居一軒がある。また、多摩ニュータウンNo.二七一・四五二遺跡(落合)では八世紀後半から九世紀後半にかけて、竪穴住居が一六軒建てられている。このように、大規模集落が出現することや、竪穴住居に加えて掘立柱建物が出現するのも、古墳時代にはみられなかった奈良時代の新しい要素である。