こうした奈良時代における多摩丘陵の集落の発展は、武蔵国府の設置や武蔵国分寺・国分尼寺の建立と無関係ではない。八王子市和田・百草窯跡群や稲城市大丸窯跡群その他、多摩丘陵の各地に武蔵国府や国分寺・国分尼寺の屋根を飾る瓦や床に敷く磚を焼く瓦窯や、これらの官衙や寺院の日常生活に供される須恵器を焼く須恵器窯が築かれた。八王子市百草・和田窯跡群のうち、最古に属する八王子市帝京大学構内の百草・和田一号窯で、全国的に国府の施設が整備される八世紀第二四半世紀に須恵器が焼き始められているのも、百草・和田窯跡群と国府との関係を物語っている。多摩市内にも現在は消滅してしまっているが、武蔵国分寺創建時の瓦を焼いた瓦窯が和田と下落合にかって存在した。武蔵国分寺の建立に際して瓦を寄進した武蔵国内の郡や郷、個人の名を記した文字瓦の中には、当時の多磨郡から寄進されたことを示す「多」や「玉」、「玉瓦」の銘をもつものも発見されている。ただし、武蔵国分寺への瓦の寄進地と生産地は必ずしも一致せず、多摩ニュータウンNo.八六〇遺跡(連光寺)では、都筑郡を意味する「都」の刻印のある平瓦と榛沢郡を意味する「木」偏の刻印のある丸瓦が出土している。
多摩丘陵に須恵器や瓦の窯が築かれたのは、多摩丘陵が良質の粘土と豊富な燃料資源に恵まれていたことにもよるが、多摩丘陵が国府や国分寺に近接するという地理的条件が大きい。さらに、多摩丘陵を南北に縦断し、武蔵国府と結ぶ古代官道が開削されたことも、多摩丘陵の開発を促進した。国分寺市、府中市、多摩市には道幅約一〇メートルの古代東山道の道跡が点々と存在する。丘を削り、平野を一直線に走る東山道の整備が物資や人、文化の交流を促す上で大きく作用した。