変貌する集落

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奈良時代に始まった多摩丘陵の開発の波は、平安時代になるとさらに加速され、集落遺跡や遺物散布地の数が増えると共に、それまでほとんど集落の営まれなかった丘陵部にも集落が形成されるようになる。多摩市内でも平安時代の集落遺跡は一九か所にのぼり、集落の中心が和田地区から一ノ宮地区に移る一方、奈良時代には集落が営まれなかった永山、上小山田、鶴巻、豊ケ丘などの地域にも集落が進出する。これらの集落の多くは谷頭や丘陵斜面中のわずかな平坦地に一軒から四軒の竪穴住居がある程度の小規模なものであるが、多摩ニュータウンNo.二七遺跡(永山)の二五軒、同No.二七一・四五二遺跡(落合)の一六軒、同No.四五〇遺跡(乞田)の二三軒、同No.七六九遺跡(豊ケ丘)の二八軒のように、乞田川に面した沖積地やそれに続く緩斜面に形成された大規模な集落も出現した。
 こうした平安時代の集落の中には、農村集落が主体であった奈良時代の集落遺跡とは様相を異にするものも出現した。この時期、特に注目されるのは多摩市から日野市にかけて広がる落川遺跡である。多摩市域の調査が不十分であるが、日野市域では奈良時代から平安時代の竪穴住居や掘立柱建物が密集し、当地域最大の規模を示すと共に、多摩丘陵では数少ない遺物である緑釉(りょくゆう)陶器や灰釉(かいゆう)陶器などの土器類、木簡、漆紙文書、墨書土器などの文字資料、役人が佩用する帯金具その他、通常の集落遺跡ではみられない特殊な遺物が多量に発見されている。この落川遺跡のすぐ東には延喜式内社の小野神社があり、小野神社との関係も問題になっている。
 寺院跡かと推測される多摩ニュータウンNo.二六四遺跡(永山)のような遺跡が出現するのも、奈良時代にはみられない新しい動きである。ここでは竪穴住居一軒と掘立柱建物の柱穴が検出されているだけであり、寺院跡とする積極的証拠はないが、多摩丘陵のみならず全国的にも出土例の少ない奈良三彩の椀をはじめ、愛知県猿投(さなげ)窯で作られた緑釉陶器の椀、皿、灰釉陶器の皿、段皿、長頸瓶(ちょうけいへい)、陶製の小型塔である瓦塔などが出土しており、小規模な寺であった可能性を秘めている。
 製鉄関係の遺構や小鍛冶遺構を伴う集落が出現するのも、平安時代の特徴である。多摩市内では多摩ニュータウンNo.三七遺跡(百草)、同No.四五〇遺跡(乞田)、同No.七四〇遺跡(落合)などがあり、フイゴの羽口、ルツボ、鉄滓、銅滓、鉄鏃などが出土している。銅や鉄の精錬と同時に各種の生活用具や農工具の製作や補修が行なわれていたのであろう。平安時代になると、奈良時代に比べて集落跡から発見される鉄製農耕具の量が増加する。多摩丘陵では奈良時代だけでなく、平安時代になっても窯業生産が継続され、須恵器や相模国分寺の瓦が焼かれている。この時期、拠点的な大集落から離れて小規模な集落が丘陵最奥部へと進出していった背景には、鉄製農耕具が一般農民層にまで広く普及したこと、奈良時代に始まった多摩丘陵での窯業生産の発達に伴う燃料としての山林の伐採が進んだことがあげられる。丘陵奥部の小規模な谷戸水田の開発もこの頃に行なわれたと考えられる。