広域流通の発達

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出土する遺物のほとんどが在地性の強いもので占められた奈良時代とは異なり、遠距離からはるばる運ばれてきた遺物が増加するのも、平安時代の集落遺跡の特徴である。これは特に土器類に顕著であり、先にあげた平城京内の官営工房で作られた奈良三彩や尾張の猿投窯で作られた緑釉陶器、灰釉陶器以外にも、美濃や山城で作られた緑釉陶器も発見されている。また、その出土量も相当な量にのぼり、緑釉陶器の出土地は多摩ニュータウンNo.九一・四六二遺跡(落合)、同No.二六四遺跡(永山)、同No.四五〇遺跡(乞田)、同No.七六九遺跡(豊ケ丘)の四遺跡にのぼっている。灰釉陶器では出土遺跡は多摩ニュータウンNo.三七遺跡(百草)、同No.九一・四六二遺跡(落合)、同No.二六四遺跡(永山)、同No.二七一遺跡(落合)、同No.四五〇遺跡(乞田)、同No.四五二遺跡(落合)、同No.四六二(落合)、同No.五〇九遺跡(連光寺)、同No.七六九遺跡(豊ケ丘)、同No.七七四・七七五遺跡(乞田)の一〇遺跡に達している。緑釉陶器や灰釉陶器がこれだけの分布密度で発見される例は、関東地方では稀であり、当時は高級品であったこれらの陶器をこれだけ入手し使用できた人々が多摩丘陵にいた背景には、財力の問題と共に多摩丘陵と遠隔地を結ぶ交通路の整備、手工業製品の広域流通経路の発達があったことを物語っている。また、紡錘車の出土は副業として機織りが行なわれていたこと、硯や硯の代わりに用いた須恵器蓋などの出土は、当地に識字層がいたことの証でもある。
 中世になると、多摩市内でも竪穴住居はほぼ姿を消し、掘立柱建物が主流となる。一般的な小規模住居址九か所以外にも居館址四か所、城址一か所が出現し、常滑などの国産陶器に加えて中国製陶磁器などの高級品が出土する。平安時代の集落跡から遠隔地から運ばれた高級品が多量に発見される現象は、後の中世の豪族たちの生活形態の前身が平安時代に形成されつつあった状況を示すものであろう。