国司の政策

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律令制的な地方支配は、八世紀後期以降になると、多くの面で機能低下が明らかとなり、単純な弥縫策でこれを糊塗することが困難な段階に達した。その最も基本的な原因は、社会のあり方自体が律令制の成立時点とは大きく変化した点に求められる。かつてのように、地域社会における伝統的な権威を具現する郡司の実質的支配力を前提に国家の支配を維持することはできなくなり、細分化された郡司層や新たに台頭してきた新興層など、従来より広範な支配層が形成されつつあった。しかし、富豪層と呼ばれる彼らの地域社会における地位はこの時期なお不安定であり、その中でどのような形態の地方支配体制がそこに構築されるかの模索が始められた。
 国司にとって、かつてのように郡司の実質的支配力を前提に、その活動を指揮・監督することによって地方支配を維持することは不可能となり、国司が富豪層を直接把握し、自らが国内行政の実務に密接に関与することが必要となった。それによって律令制的な各種の収取の徹底をはかることが国司の責務として強調されたが、それは一方で社会の変化に応じて地方支配の形態を変化させることでもあり、律令制的な地方支配の原理的変更につながる場合もあった。この結果、国司制度そのものも変質を余儀なくされた。
 平安時代初期の国司に関する政策では、責任体制の構築が大きな課題であった。八世紀後期から、調庸等の中央への貢納品の違期(いご)(貢納遅延)・麁悪(そあく)(品質低下)・未進(みしん)(未納)が問題化し、征夷・造都のための支出の増加の中で、中央財政の悪化が深刻になった。正税(しょうぜい)などの地方財源で中央財政を補填する措置がとられたこともあり、地方財政も厳しい状況にあった。定められた徴税量を確保することが国司には強く求められ、違反時には刑罰を加えることよりも、国司らに不足分を填納させて徴税品目を現実に確保することが重視されるようになった。このため、個々の国司の責任範囲を明確にする措置として専当国司制の強化がはかられた。専当国司制は、国司の果たすべきさまざまな業務を国司個々が分担して遂行する方法であり、たとえば調庸や正税などの税目ごとに徴収を分担したり、国内の神社の修理や祭事の執行などの業務ごとに、担当する国司が定められた。こうした方式は律令制の当初から見られたものではあるが、とくに八世紀後期から九世紀前期には、中央政府がある業務については専当国司を定めて遂行するように命じる事例が増加し、事前に専当国司の名前を届け出ることが求められた。
 国の行政は、国司全員が共同で責任を負うのが本来の姿であったが、専当国司制の強化は、業務ごとに国司個人の責任を問うことを意味した。しかし、たとえば徴税品目の不足を誰が補填するかといった問題が生じると、専当国司だけにその責任を負わせることには無理があり、そうした場合の中央政府の対応は必ずしも一貫したものではなかった。この中で、専当国司は国司四等官の上級者に限られるようになり、九世紀半ば過ぎには、国務全般の責任が国司官長(国司の最上級者、多くの場合は守(かみ))個人に集中される体制が成立した。官長である国守に任命された者は、前任の国守から国の管理する施設・物品・書類を引き継ぎ(受領(ずりょう))、任期中の国務遂行を中央政府に対して請け負う、いわゆる受領国司の形態がここに生まれてくることになる。