社会構造の変化は、郡司の官職としての性格を大きく変質させた。かつての郡司は、地域に対する伝統的な権威を背景に郡の領域全体に実質的な支配力を行使し、地方官僚として国司とは異なる機能を果たす存在であった。しかし八世紀末から九世紀に入ると、郡司のこうした性格はもはや失われつつあり、郡司の官職としての位置づけも、国司の下僚として地方行政の実務を遂行することに求められるようになった。
郡司の任用法は八世紀半ばに改められ、譜第(ふだい)重大家を選定して、以後はその嫡系の者のみを対象として選考する方式が定められた。これは郡領就任をめぐる郡領氏族内部の対立の激化に対応した措置であった。しかし、こうした形で選考された郡司には、行政の実務を遂行する能力において問題の生じることも多かった。これは、限定された候補者の中に常に良材が得られるとは限らないということもあるが、むしろ従来のような少数の郡司によって郡内を把握することが、当時の社会構造においてもはや困難となりつつあったことを示している。八世紀末の延暦年間には、郡司としての実務能力を意味する「芸業」を選考基準として任用を行う方式が新たに始められたが、期待した効果は得られなかった。一方で地方行政の現場にある国司たちは、より細分化されたかたちで、地域に勢力を持つようになってきた富豪層を郡の行政に導入する方向を模索しつつあった。この結果、九世紀前期の弘仁年間にいわゆる擬任(ぎにん)郡司制が成立した。
擬任郡司とは、国司が適任者を選考して中央に推薦し(国擬)、その者について中央でも選考を行った上で正式に任命するという郡司の任用手続の中で、国擬を経ながらいまだ朝廷からの正式任命を受けていない者を指す。国擬から正式任命までは最低でも数か月を要したため、国擬された者は、その後の手続が終了する以前から郡司としての実務に従事するのが例であり、正式手続を終えた正任郡司に対して、彼らは擬任郡司と称されたのである。こうした擬任郡司は、郡司に欠員が出た場合には必ず発生する形態であるが、本来なら擬任郡司の数が欠員の数を上回ることはあり得ない。ところが、八世紀の後期になると、一つの欠員に対して何人もの擬任郡司が置かれるという状態が生じてきた。これは、郡司就任を望む者が多数にのぼり、彼らを擬任郡司として処遇したという側面もあるが、根本的には、郡内のより多くの有力者たちを郡の行政に従事させなければ地方支配を維持できないという国司の判断が大きく影響していた。この時期には、郡書生・税長といった職名を持つ郡雑任(ぞうにん)と呼ばれる郡の下級職員も増加しており、従来の郡司階層より広い範囲の在地有力者たちを郡の行政に従事させる方式がさまざまに模索されていた。一つの欠員に対して複数の擬任郡司が置かれることは、実質的に郡司定員の増加を意味し、こうした擬任郡司は副擬郡司と呼ばれた。中央政府は、八世紀末ごろまでは副擬郡司の存在を認めなかったが、弘仁年間にいたって、国司の判断によって適宜実力のあるものを擬任郡司として郡務に従事させる政策をとるようになった。この方式では、郡司には国司の推薦する者をそのまま任用することとし、適材を選考する責任を国司に負わせるとともに、候補者の能力を判断する手段として国司が彼らを擬任郡司に登用する権限を大幅に認めた。この結果、擬任郡司は欠員の有無にかかわらずに設置される恒常的な存在となり、副擬郡司の存在も公認された。
擬任郡司制下の郡司は、国司の強い指揮下におかれ、国司の地方支配のための下僚であり、律令制本来の郡司とは官職としての位置づけに大きな変化が生じた。また、郡司定員の実質的な増加がもたらされたことにより、郡の行政業務処理の形態にも変化が生じ、郡の業務の全体を少数の郡司が共同で執行する従来のあり方とは異なり、たとえば課税品目別に徴収・貢納の職務を分掌したり、郡内の地域(郷)ごとに業務を分担するといった形態がとられるようになった。このことは、律令制本来のあり方に比較して郡司の有する権威の低下を意味する。しかしその一方で、官職として新たな位置づけをされたことにともなって郡司の職能が整備され、郡司に任命されるような人々の、地域における政治的地位を向上させる効果もあった。