承和八年(八四一)、武蔵国男衾(おぶすま)郡の人壬生吉志(みぶのきし)福正は、自分は位階(外従八位下)をもっているため課役を免じられているが、二人の息子は才能がないため調庸の負担を生涯負っていくことになるのはふびんであるとして、息子たちが死ぬまでに納めなくてはならない調庸を自分が前納するので、彼らを一生免税の扱いにしてほしいと願い出て認められた(資一―157)。福正は男衾郡の大領となった人物であり、そうした彼がこのような願い出をした理由として、ひとつには、擬任郡司制が成立してかつてのように郡司の地位が少数の氏族によって世襲に近いかたちで継承されるものではなくなったために、息子たちの代には自分のように郡司に就任し位階を得て免税身分を得ることが望めないという事情のあったことが考えられる。それとともに、国郡から調庸等の課税を受けない立場になることが、地域における社会的地位を高める上で有利に作用するということもあったと思われる。徴税に従事する郡司らの勘責を受けない身分であることは、自己の利権を守るための根拠として経済的な有利さを得られるだけでなく、地域において特別な政治的立場にあることを示す点でも意味があったのではなかろうか。福正は、この四年後の承和十二年には、一〇年前に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を行うことを申請して認められた。彼はそれだけの経済力を有していたと考えられるのであり、伝統的権威を失って没落途上にある地方豪族というイメージで捉えることはできない。
福正のように、郡司として地方行政とのつながりを持ちながら、地域での勢力を伸張させていく富豪層たちは、武蔵国でも決して例外的な存在ではなかったと思われる。この時期の武蔵国では、大規模な耕地の開発が試みられていたことが知られ、その担い手は富豪層であったと思われる。九世紀前半の天長から承和年間には、皇室の半ば私的な所領である勅旨田(ちょくしでん)が、一〇〇~五〇〇町という大規模な形で武蔵国内各地に設定され、正税等を用いた開発が行われた(資一―134・144・147・156)。また、九世紀半ば過ぎに摂政藤原良房(ふじわらのよしふさ)らによって造営された京の貞観寺(じょうがんじ)の所領として、高麗(こま)郡山本荘・多磨郡弓削(ゆげ)荘・入間郡広瀬荘が存在したことも知られる(資一―221)。こうした中央の権門の所領の設定は、中央の意志だけで可能なものではなく、それに呼応する地方の勢力が実際の開発・経営に当たることによって成り立つものであった。富豪層は、一方で、中央の権威を借りて自己の利権の確保・拡大に動いていたのである。こうした点で、彼らにとって中央の権門とつながりを持つことは、自己の利権を確保し拡大する点で大きな意味をもった。中央と接触する機会は、郡司などとして国郡行政に関わり、京への貢納業務に従事することなどから得られることが多かった。国郡の行政にも関わり、中央権門とも結びつき、その双方と時には連携し、時には対立しながら、自己の利権を守り、地域における政治的立場を向上させようとする郡司・富豪層の動向をここにうかがうことができる。