御牧の形態が生まれる端緒となったのは、天平神護元年(七六五)に新設された内厩寮(ないきゅうりょう)による所管牧の設定であった。前年に恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮定した称徳天皇は、この年、恵美押勝(藤原仲麻呂)政権下にその影響を強く受けていた中央の軍事機構の改変に着手し、自己の権力を支える軍事基盤として令外三衛(近衛府(このえふ)・中衛府・外衛府)の整備を実施した。同時に、これらで用いられる騎馬を飼養する機関として、従来の左右馬寮(めりょう)と比べて天皇直轄の性格をより強めた内厩寮を新たに設置した。内厩寮は、自己が管理する牧を保有した点でも左右馬寮と異なっており、騎馬の生産・育成から飼養までを一貫して管理できる権限を持った官司であった。内厩寮の牧の多くは、従来から存在していた令制の牧の管轄を兵馬司から内厩寮に変更する形で設定されたものと見られる。内厩寮の牧の設定は、当初信濃国で進められたことが知られる。
その後八世紀後期から九世紀の初期になると、調庸の麁悪(そあく)・違期・未進が問題化し、律令制に基づく収取貢納制度全般が十全に機能しなくなったことが顕著となった。令制の牧においても、従来の経営方式が行き詰まりつつあった。牧から貢進される馬の質が低下したり(『類聚三代格』宝亀三年五月二十二日官符、同延暦十五年十月二十二日官符)、毎年の牧馬帳にその年の産出馬の記載がなかったり、牧馬帳自体が作成されないといったことがしばしば起こるようになった(同延暦八年九月四日官符)。六割という繁殖率を守れない場合に牧長らに補填させる措置についても、実際の馬で補填させる方法はうまく機能しなくなり、代価として稲で納入させることとしたが、牧長らがその負担に耐えられないために、当初稲四〇〇束であった代価が、二〇〇束、さらに一〇〇束に引き下げざるを得ない事態も生じた(資一―137)。
名称 | 種別 | 馬牛の別 | 所在推定地 | |
旧郡 | 現在 | |||
檜前牧 | 諸国牧 | 馬 | ①賀美 | 埼玉県児玉郡上里町 |
②那賀 | 埼玉県児玉郡美里町 | |||
③豊島 | 東京都台東区 | |||
神崎牧 | 諸国牧 | 牛 | 豊島 | 東京都新宿区 |
石川牧 | 御牧 | 馬 | ①都筑 | 神奈川県横浜市 |
②多磨 | 東京都八王子市 | |||
小川牧 | 御牧 | 馬 | 多磨 | 東京都あきる野市 |
由比牧 | 御牧 | 馬 | 多磨 | 東京都八王子市 |
立野牧 | 御牧 | 馬 | ①都筑 | 神奈川県横浜市 |
②多磨 | 東京都府中市・立川市 | |||
③足立 | 埼玉県大宮市 | |||
小野牧 | 御牧 | 馬 | 多磨 | 東京都多摩市・稲城市 |
秩父牧 | 御牧 | 馬 | 秩父 | 埼玉県秩父郡長瀞町(石田牧) |
埼玉県児玉郡神泉村(阿久原牧) |
こうした状況の中で、政府は牧に対する政策を大きく転換させ、直轄性の高い御牧を集中的に整備することによって、中央政府が必要とする乗馬を確保する策をとったようである。九世紀初期の天長(てんちょう)年間までに、信濃国のほか上野・甲斐・武蔵の三国にも御牧が設定され、信濃・上野・甲斐には、国内の御牧を統括するために中央政府から任命される専任官である牧監(ぼくげん)が置かれた。この時期以降、牧に関する諸対策はこの四か国だけを対象とする場合が多くなり、ここにいわば四か国による御牧体制の確立を認めることができる。これと前後して、牧の管理と馬の飼養を扱う官司の再編も行われ、内厩寮と令制の左右馬寮の後身である主馬寮(しゅめりょう)などが統合され、新たに左右馬寮に編成された。この結果生まれた左右馬寮は、御牧を管轄することとなり、武蔵国の御牧は右馬寮の管下に入ることとなった。