九世紀に入ると、東国と、都をはじめとする諸地域との人々や物資の交流は、いっそう拡大した。国々に赴く国司をはじめ、交易に従事する商人や、僧侶などの往来も増加したと思われる。当時は東国仏教の興隆期で、布教のため関東に来た法相宗(ほうそうしゅう)の徳一や天台宗の最澄、また関東から比叡山に赴く円仁(えんにん)などの僧があった。
この時期、平安京の新都を舞台に、天皇の権力と結びついて成長してきた特権的な皇族・貴族層(院宮王臣家(いんぐうおうしんけ))は、交易の利益にも着目し、積極的にその面に進出してきた。とくにかれらが注目したのは、八世紀末以来の軍事行動で新たに国家の支配下に入った陸奥・出羽の広大な土地や、黄金・馬、さらには擦文文化・オホーツク文化に属する北方世界の人々との交易による、毛皮などの珍奇な産物であった。
延暦二十一年(八〇二)には、院宮王臣家が渡嶋(わたりしま)の蝦夷(えみし)の貢上する毛皮を争って買い求めているとしてその禁止が命じられ、翌年には出羽国の開発すべき土地を家々人々が占有することが禁止されている。さらに弘仁六年(八一五)の官符では、「権貴の使、豪富の民」が争って陸奥・出羽にやって来て良馬を求めるため、軍用の馬が得がたくなっていると指摘されている(いずれも『類聚三代格』)。
このような王臣家による支配は、その流通手段にも及んだ。彼らは、東国や北陸の諸国から都へ貢上される物資を運ぶ駄馬や船などを中途で奪い、それらを雇用して自らの物資の運搬にあてた。東北地方から都への路次にあたる武蔵国も、このような動きと無関係ではなかったであろう。
交通量の増加は、交通施設の整備をも必要とした。承和二年(八三五)、東海・東山両道の主要な河川について、浮き橋や布施屋(ふせや)をつくり、渡船を増加させることが命じられている。武蔵国とその周辺では、相模国の鮎河(あゆかわ)(相模川)に浮き橋が設けられ、武蔵国の石瀬河(いわせがわ)(多摩川)、武蔵・下総国境の住田河(隅田川)で渡船の数が増加された(資一―148)。
またこれより先武蔵国では、天長十年(八三三)、旅行者救済のため多磨・入間両郡の堺に悲田処を設置した(資一―145)。これは国府が南部に偏在しているため、国府に赴く人民の苦労が多かったことによるが、またこの道を上野・下野など東山道諸国への交通路として利用する者が多かったことをも示していよう。
多摩ニュータウン内の平安時代の集落跡からは、灰釉陶器や緑釉陶器が発見されることがあり、そのなかには、尾張(愛知県)の猿投(さなげ)窯の製品や、京都周辺の製品と見られるものがある。東海道から武蔵国府に至る路線上にあるこの地域にも、この時期の交易発展のあとを見ることができる。
『伊勢物語』は、九世紀の歌人在原業平(ありわらのなりひら)の歌を中心とする歌物語で、そこには、東国に住むべき国を求めて赴く一人の貴族の姿が、三河(愛知県)の八つ橋、駿河(静岡県)の宇津(うつ)の山、富士山、そして武蔵と下総との境の隅田川と、道々の風光を詠じた和歌を介して描かれている。都の貴族にとって、東国はまだ遥かな未知の世界であったが、歌枕や物語を介して、しだいにその結びつきを強めることになった。