九世紀に入ると、先進技術の流入によって、東国各地で空閑地の開発が盛んに行われ、それに伴って「富豪の輩(ふごうのともがら)」が成長した。彼らは、国家権力と結合しながらも、一方では国家秩序を破壊する反体制的行動をとる「盗賊」としての一面も持っていた。承和十二年(八四五)に武蔵権守、同十三年に武蔵守に任じられた丹墀門成(たじひのかどなり)の薨伝には、武蔵国は領域が広大で盗賊が充満していたという状況を述べ、門成は着任後すぐに風俗を粛清し、盗賊たちを懐柔したとあるが(資一―168)、ここで門成が懐柔した「盗賊」とは、在地に基盤を持った富豪層と考えられる。
貞観三年(八六一)十一月十六日、凶猾(きょうかつ)が党をなし、群盗が山に満ちているという武蔵国の状況に対処するため、郡ごとに検非違使(けびいし)一人を置くことになった(資一―198)。この史料からは、この年以前にすでに武蔵国に国検非違使が置かれていたことが窺えるが、国検非違使、郡検非違使ともに、国衙(こくが)の支配下で警察司法のことにあたる雑任国司(ぞうにんこくし)待遇の職であった。令制では、国司が部内の糺察権を有していたが、国検非違使、郡検非違使の設置以後は、所轄内における司法警察権の行使を、順次これらに委任していったことになる。
これらの地位に補任された者の具体的な名は明らかではないが、摂津国など他国の例から推測すると、在地の有力者であったと思われる。
つまり、彼らは「盗賊」と呼ばれた反体制的な者と同一の社会階層に属していたのであり、「富豪の輩」は一面では、日常的な非違検察を行い、多くの兵士を徴発して隣国の反乱の鎮圧のために出動するという、体制的な存在であり、また一面では、国家の支配収奪に反逆するという、反体制的な「盗賊」としての相貌も併せ持っていたのである。
中央政府にとっては、これらの富家の輩への対応が地方支配において重要な位置を占めることになったのであり、また地方においては、これらの活動が将門(まさかど)の乱、忠常(ただつね)の乱の史的前提となったのである。