『類聚三代格』所引昌泰二年(八九九)九月十九日太政官符に引かれた上野国解(げ)は、強盗蜂起のありさまを述べ、上野国ではそれを隣国(武蔵国)と共同して追討したが、散開した類が相模国足柄(あしがら)坂および上野国碓氷(うすい)坂の方面に逃亡してしまうので、この両所に関所を設けて通行の人馬を検問することを請うている。
武蔵国に関して言えば、武蔵国が強盗の追討に参画したこと、散開の類の逃亡ルートの一つに、多摩市内を通る東海道が含まれていたことが注目されるが、ここでは、この解の中に見える「僦馬(しゅうば)の党」という語に的を絞って述べたい。
この解には、第一に当時頻発していた強盗蜂起の中核的存在として僦馬の党という組織結合があったこと、第二に僦馬の党の構成員は「坂東諸国富豪の輩」であったこと、第三に僦馬の党は駄をもって物を運ぶ運送業者であったことが語られている。また、この駄は皆掠奪によるものであって、東山道の駄を盗んでは東海道に就き、東海道の馬を掠しては東山道に赴くとされている。関東地方における交通の発達がもたらした、運送・流通専業者の発達と、その反体制的行動の現われであろう。
これら「僦馬の党」の活動は上野国に限ったものではなく、上野・武蔵・相模・甲斐など、関東西部一帯に拡がっていた。昌泰三年(九〇〇)には武蔵国において強盗が蜂起したことが見えるし(資一―247)、延喜元年(九〇一)には、寛平七年(八九五)以来の坂東における群盗の鎮定のために諸社に奉幣が行われているが、信濃・上野・甲斐・武蔵国の被害が最も甚大であったことが述べられている(資一―248)。
しかしながら、これらを現代的な感覚で、単なる盗賊団と見るわけにはいかない。彼らは、交通の発達によって発生した運送・流通業者なのであり、たとえば東海道と東山道との間の物価や物品数量の差異を利用して、各々の貢納物を調整しあい、その価格差で利益を得ていたものと思われる。
一定の地方から、一定の期日に、一定の物品が、一定の経路をたどって貢納されることを建前としていた律令国家の立場からは、これらの行為は掠奪(あるいは強盗)と見なされたのであろうが、現代的な発想から言うと、極めて当たり前な商業活動と考えるべきであろう。事実摂関期には、国司自らがこれらのような流通活動に乗り出すことになる。これらの史料に語られているのは、国司の側からの、一方的な認識、あるいは反発である。
これら富豪層による活動は、国司の遵守しようとした建前に必ずしも従わないという点において、反体制的活動と称することもできようが、それとても、商業活動をめぐる私闘において、一方の当事者が国司の関係者であった場合に、他方が公権力への反抗と称された可能性もあったわけであり、単純に反体制活動と言うわけにはいかない。
ただし、このような行動が蓄積されると、いずれ支配者層に属する有力者を巻き込んだ反国衙闘争に発展する素地を持つことになる。延喜十五年(九一五)、上野介藤原厚載(あつとし)が上毛野基宗(かみつけののもとむね)に殺害されるという事件を武蔵国が飛駅(ひえき)を発して中央に報じている(資一―258)。また延喜十九年には、前武蔵権介源仕(みなもとのつかう)(嵯峨天皇曾孫、足立郡箕田(みた)源氏の祖)が、官物を奪い、官舎を焼き、武蔵守の高向利春(たかむこのとしはる)を襲おうとしたという事件が起こった(資一―266)。
これら関東各地で起こった反国衙闘争は、富豪層を中心とする反体制的商業活動に、受領クラスの有力者や源氏などのいわゆる辺境軍事貴族が加わったことによって、国衙勢力への直接的な武力闘争へと昇華してしまった例であろう。常陸国府と闘争を続けていた藤原玄明(はるあき)をはじめとして、こうした動きのなかから平将門の乱が起こることになる。