その後、元慶八年(八八四)には、従五位上小野神が正五位上の神階を授けられたことが見える(資一―240)。
さらに、武蔵国総社である六所宮(ろくしょのみや)(府中市の大国魂神社)の成立(平安後期か)とともに、六所宮の大祭において第一の宮として祀られるようになったので、一宮と称するようになった。
一宮とは、朝廷あるいは国司が制度的・法制的に指定したものではなく、平安時代初期以降、諸国において由緒の深い神社、または信仰の篤い神社がしだいに勢力を得て、おのずと神社の階級的序列が生じ、その最上位にあるものが一宮と称されるに至ったものである。そして、諸国において一宮とされた神社は、多くは『延喜式』神名帳において名神大社とされ、神階ももっとも高い。その点では、武蔵国一宮にふさわしいのは、大化前代から武蔵国造によって奉祭され、『延喜式』の名神大社で、神階も正四位上にまで至った足立郡氷川神社であろう。
それにもかかわらず、『延喜式』では小社であり、名神社でもなく、神階も正五位上に過ぎなかった小野神社が、六所宮の一の宮として祀られるようになったのは、国府との関連を考えるしかないであろう。第五章で述べられているが、武蔵国の国府は、旧国造とは関係なく、必ずしも武蔵の中心にはない場所に、律令国家の成立に際して設置された。小野神社の、実際の信仰や由緒、勢力以上のこの地位は、国府の近辺に位置したことによる国司の奉祭の簡便さという事情にもとづくものであったと考えられる。おそらく、国司神拝に際して最初に参拝されていたものが、六所宮成立の時点で、第一に祀ることとされたのであろう。
図4―71 多摩市小野神社