また、鑑真(がんじん)の持戒第一の弟子で「東国の化主(けしゅ)」と崇められた道忠も、関東地方で積極的に活動し、上野国の緑野寺(みどのでら)、下野国の大慈寺、武蔵国の慈光寺(埼玉県秩父、または入間郡幾川村)などの寺院を興した。これらを基盤として、関東諸国からは二代座主(ざす)の円澄、三代座主の円仁(えんにん)、四代座主の安恵(あんえ)をはじめとして、初期天台宗の座主が輩出したのである。
このうち円澄は、武蔵国埼玉郡の人で、姓は壬生(みぶ)氏である。宝亀二年(七七一)に生まれ、一八歳で道忠の弟子になり、二八歳で比叡山に上り、義真に次ぐ第二代の座主になった。承和四年(八三七)、六六歳で卒している(資一―149)。
承和十二年(八四五)、前男衾(おぶすま)郡大領の壬生吉士(みぶのきし)福正が、神火によって消失した武蔵国分寺の七重塔の再建を申請し、許可されているが(資一―164)、福正の居地は慈光寺と緑野寺とを結ぶ線上にあり、この福正の行為も、ここを活動の舞台としていた道忠門下の僧と知識の影響を受けてのものであったとの指摘もある(前沢和之「関東の古代寺院」『新版 古代の日本 第八巻 関東』角川書店 一九九二)。
関東の古代寺院は、国分寺や定額(じょうがく)寺ではなしえなかった宗教活動の舞台となったのであり、それを支えたのは、郡司層に率いられた広範な民衆なのであった。
なお、承和二年(八三五)、石瀬(いわせ)河(多摩川)と住田河(隅田川)に浮橋と布施屋を造り、渡船の数を増やすことが命じられているが(資一―148)、その預(あずかり)となったのは、大安寺僧の忠一(ちゅういつ)であった。この忠一も、武蔵国と何らかの関わりのあった僧であった可能性が高い。
一方、武蔵国出身の僧で特筆すべきは、法隆寺東院の道詮(どうせん)である。道詮は、武蔵国の生まれで姓氏は不詳、法隆寺東院の院主寿仁(じゅにん)の弟子として出家し、東大寺玄耀(げんよう)に従って三論を究め、真言密教をも修めた。嘉承三年(八五〇)、仁明天皇の授戒の師に定められた。天安元年(八五七)、文徳天皇の御前において、読経の僧のうちもっとも優れた者六、七人が論議を行ったが、道詮はその座主とされた。聖徳太子を崇敬し、荒廃した法隆寺東院の再興を願い、貞観元年(八五九)、勅許を得て再建を果たした。晩年も法隆寺の学問の振興をはかり、貞観十八年(あるいは十五年)、入滅した。その坐像が東院夢殿内に安置されている。
図4―72 塑造道詮律師坐像(法隆寺夢殿)
一方、武蔵国における広範な仏教振興を示す例として、写経に関する史料を最後に挙げる。承和六年(八三九)、武蔵など関東七国に、分担して一切経一部を書写することが命じられた(資一―153)。それに関するものか、承和十四年には、武蔵国分寺僧最安が大菩薩蔵経巻十三を書写している(資一―171)。仁寿三年(八五三)にも、武蔵・信濃両国に、一切経各一部を書写することが命じられている(資一―182)。一切経とは、経・律・論の三蔵その他、釈疏までを含むものであるが、この膨大な量の経典を書写することのできた当時の東国仏教の実力は、容易に想像できよう。
図4―73 大菩薩蔵経巻13奥書