九世紀以来、国司制度は、国務全般の責任が国司の官長(守(かみ)または介(すけ))個人に集中される形へと変化し、十世紀ころになるといわゆる受領国司(ずりょうこくし)の制度が成立した。受領は、一国の行政上の権限を一手に掌握し、任期中(この頃は通常四年間)における貢納その他の定められた義務の履行を中央政府に対して請け負った。中央政府は、国務遂行については受領の比較的自由な裁量に委ね、任期中の勤務評定(受領功過定)や新官職への任命(除目(じもく))などの人事権の行使を通じて受領を統制するようになった。
利得に恵まれた受領のポストは、中流貴族にとって競望の的であり、人事権を握る上流の貴族には彼らの私的奉仕が集中するようになった。また、受領の成立によって国内行政の実務から排除される形となった下位の国司(介・掾(じょう)・目(さかん)など)のポストは、国司としての俸給を得るだけの地位となり、一種の売官制度である年給によって任命されることが多くなった。国司の官職は、こうして従来にも増して利権としての性格を強めることとなった。
朝廷の各種の建物や寺社の造営などを請け負うかわりに受領に任命されるいわゆる成功(じょうごう)の制度の展開も、受領の地位の利権化にともなう現象のひとつと言える。そして、受領に就任することは、成功にかかる費用を上回る利得の獲得を期待できる機会であったわけである。
したがって、受領たちにとって、定められた貢納の義務を回避することができれば、それはその分だけ自己の私富を拡大できることを意味した。もともと、国内に洪水・旱魃・疫病・飢饉などが発生した場合には、民衆救済のため、国司の申請によって免税その他の措置をとることが可能であったが、この時期になると、民衆救済というよりは、受領の貢納義務の減少を目的とした免税申請がなかば恒例化するようになっていた。出挙(すいこ)に出すべき正税稲(しょうぜいとう)の本稲(元本)の数量が規定額以下となることを認めてもらい、確保すべき利稲(利息)を少なくてすませる正税減省の申請や、収穫不能で免税扱いとなる水田の面積を定率以上に認めてもらう不堪佃田(ふかんでんでん)の申請などは、受領にとっていわば既得権に等しい申請であった。様々な名目で免税を申請し、貢納義務を免れることが受領の当然の心得であり、特に任期の最初に雑事の申請を行うことはなかば慣例となっていた。
受領の交替に際しては、前任の受領と後任の受領の利害が衝突し、紛議が生じることもあった。また、任期を終えた受領は、その後、功過定(こうかさだめ)とよばれる任期中の勤務評定を受け、その評価によって位階を進め、褒賞として新たな受領の職に任命されることができた。場合によっては、ある程度支出がかさんでも、任期中にしかるべき功績を挙げておくことが有利となることもあった(第六章第三節第一項三参照)。
なお、武蔵国は、十世紀前期に一時、院宮分国となっていた。院宮分国とは、上皇(院)・皇后(中宮)・女院などが特定の国の受領を推挙する権利を与えられ、自己と関係の深い人物を受領に任じて、その国からの種々の貢納を受け取る制度である。いわば国家財政の切り売りに等しい制度であるが、当時は上皇らの経済的得分が国家の歳出として保障されており、これを歳入の段階から他と切り放して確保することを図った制度といえる。武蔵国では、延喜十八年(九一八)に高向利春(たかむこのとしはる)が「院分給」によって守に任命されており(資一―264)、これは院宮分国として比較的早い例といえる。高向利春は宇多法皇領の秩父牧(ちちぶのまき)の牧司を務めるなど、以前から法皇に仕えていた人物であり、武蔵国に地盤を置いて活躍していた。こうした関係から、宇多法皇は武蔵国を分国として得て、利春を守に任命したのであろう。