摂関期の武蔵守

496 ~ 499
摂関期の武蔵守としておおよその任期を知ることができるのは、表4―18に挙げたような人物である。これらの人物は当時の中流貴族であり、その多くが藤原摂関家ないしそれに準ずる当時の最上流貴族のもとに出入りし、私的にも公的にもさまざまな面で彼らに奉仕するような関係を有していた。こうした政界の最上層とのつながりが、受領に任命されるうえで大きな意味を持ったわけである。当時はそうしたつながりがひとつの政治システムとして機能していたのであり、それを通じて朝廷による受領の管理統制が果たされるという側面もあった。
表4―18 平安中期の武蔵守
氏名 任期 備考 出典
藤原高風 延喜17(917)~ 常陸介。 資1―261・262
高向利春 延喜18(918)~同19(919) 秩父牧牧司。武蔵権少掾。武蔵介。宇多上皇の院司。 資1―264・266
藤原善方 ~承平6(936)? 在任中死亡。 資1―314・315・316
藤原維幾 承平6(936)~ 資1―315
百済王貞連 天慶2(939)~ 資1―329・330
源満正 ~長徳元(995)? 藤原道長の家人か。陸奥守。 資1―407
藤原寧親 長徳2(996)~長保元(999)? 藤原道兼の家人。藤原道長の家人か。備後守。寛弘3(1006)没。 資1―405・410~412・415
藤原惟風 ~寛弘元(1004)? 藤原兼家の家人。文章生・検非違使。藤原道長家司。敦成親王家別当。中宮亮。 資1―422
平行義 寛弘元(1004)~ 藤原道長の家人。寛仁元(1017)病死。 資1―420・421
源頼貞 ~寛仁元(1017)~ 藤原道長の家人か。 資1―438・439
(某)光衡 ~治安3(1023)~ 下野守。藤原公季の家人か。 資1―451
(某) 万寿元(1024)~ 資1―453
平致方 ~長元3(1030)~同4(1031)? 検非違使。藤原実資の家人。 資1―459・460
藤原惟経 長久元(1040)~ 蔵人・検非違使。 資1―474・475
(某) 寛徳元(1044)?~ 資1―476

 十世紀末から十一世紀初頭に武蔵守を務めた源満正(みつまさ)・藤原寧親(やすちか)・同惟風(これかぜ)・平行義(ゆきよし)・源頼貞(よりさだ)は、いずれも当代の最高権力者である藤原道長の息のかかった人物であった。彼らは、しばしば道長のもとに馬を献上したり、あるいは道長家に家司(けいし)として仕え、種々の行事で道長やその子女に付き従っていることが知られる。なかでも藤原惟風は、文章生(もんじょうせい)出身で検非違使(けびいし)を歴任した有能な実務官人であり、道長の信頼も厚かったようである。彼は、はじめ道長の父の摂政兼家に仕え、その関係が道長に継承されたらしい。一方で道長家の家司を務めながら、官人としての経歴を積んでいった人物である。その妻も、道長の娘で三条天皇の中宮となった妍子の乳母を努めている。
 藤原寧親も、もとは道長の兄で一時は摂政ともなった道兼に仕えていたことが知られ、道兼の没後に道長が権力を握ってからは、道長への奉仕に努めている。
 源頼貞は、長和元年(一〇一二)に道長の娘威子が、三条天皇の大嘗会(だいじょうえ)で女御代(にょうごだい)となった時に、行列の前駈の役を務めており、道長に仕える家人(けにん)の一人であったと思われる。その後、成功に応じて武蔵守となったが、寛仁元年(一〇一七)になって、彼が請け負った左兵衛陣と内記所の造営になかなか取りかからないことが問題視され、あらためて成功が募られることとなった。立場の悪くなることを恐れた頼貞は、故道兼の未亡人であった藤原繁子を通じてあわてて造営費を献上しようとしたが、繁子から連絡を受けた道長はこれを突き返している(資一―438・439)。あるいは頼貞も、もとは道兼のもとに出入りしていたのかもしれない。
 武家の系譜に属する人物としては、まず源満正が挙げられる。満正は、将門の乱に関わった源経基(つねもと)の子で、兄弟の満仲(みつなか)らとともに当代随一の「もののふ」と称された人物である。武蔵守としての功績により従五位下に叙され、のち陸奥守に任じられた。この間、道長にしばしば馬を献上しており、道長に家人として仕えていたものであろう。
 平忠常の乱の際に武蔵守としてその追討を命じられた平致方(むねかた)も、系譜は不明であるが、その名前から見て、この時期坂東に勢力を伸ばしつつあった武家平氏の系統に属する可能性が考えられる。ただ、致方の主たる活動の場は京周辺にあって、検非違使として武力発動に関わっている。致方は小野宮右大臣藤原実資(さねすけ)の家人であり、実資の残した日記『小右記』にしばしば登場する。
 これら武蔵守歴任者の経歴を見ると、源満正・藤原寧親などは、武蔵守の後に陸奥・備後などの大国の受領を務めている。このことから、武蔵守は、諸国の受領として経歴を積んでいく際の最初のステップに相当する地位であったと言えそうである。武蔵国は「亡国」といわれ、諸国の中ではさほど実入りの良くない国であり、受領の任国としての格も高くなかったと言えよう。藤原道長の時代を過ぎると、上流貴族の家格が摂関家を筆頭とする形で固定化する傾向がうかがわれるようになるが、その中で武蔵守は、摂関家に次ぐ家格の貴族に仕える家人が任じられる地位として位置づけられていったように思われる。